「 豊 太 閤 博 多 町 割 4 0 0 年 記 念 誌 ・ 博 多 浪 漫 」 よ り
 
1987年11月発行の「豊太閤博多町割400年記念誌・博多浪漫」より

プロローグにかえて
日本債権信用銀行顧問 蓑原 敬

○恵まれている博多
 今、日本中の地方都市は大騒ぎをしている。製造業の発展に依存して栄えてきた町
は、産業構造の再編の中で、恐れおののいている。先行きの見通しを持てないまま、
何とかして、人を集め、賑いを取り戻したいと考え、いわゆるコンベンションシティとし
て、人集めのホールやショッピング・アミューズメントなどの施設を作り、なれないお祭り
かイベントを興してて何とか町に磁力を付けたいと願っている。
 しかし、今まで、役所も企業も中央からの情報にだけ従い、町内で団結して町興しを
やろうという歴史がなかった町では、このような危機のさなかでも、握り飯のようにまと
まる力がない。町づくりの逆風の中で、町は、砂粒のようにサラサラと解体し流れ去っ
ていく。
 人々に自由の気概と遊び心、そしていざの際の団結心が無い町は静かに溶けてい
く。
 博多は、日本の歴史の中でも例の少ない自治都市の歴史を持ち、自由の気概に溢
れていた。自由都市(リバティー・シティ)博多。
そして町人文化の伝統は、類稀な遊び心を連綿として養ってきた。ほとんど一晩中、絶
えることの無い、お祭りの連続。ニワカの伝統が示すユーモアのセンス。その心は、武
田鉄矢やタモリに見事に継承されているのではないか。
 博多は、既にして、今、他の地方都市がこぞって追及しようとしている流れを、現身の
中に体現している。
 誰もが住み良い、懐かしい町として思い出し、再び訪れてみたいと思う町。現にそうい
う町なのだ。
 それなのに、なぜ、誇らかに、高らかに、博多の町を讃え、その歴史に恥じない、その
現実のポテンシャルを生かした大胆な、町興しができないのか。博多は恵まれすぎて、
眠ってしまっているのか。
 バサラなプロジェクトで、ツヤをつけきらんのは何故か。

○21世紀に向けて
 日本が経済大国になってしまった結果、嫌でも東京はロンドン、ニューヨークと共に世
界都市になり、日本の他の地域や東半球の諸地域はその様な構造の中での新しい位
置づけを求められる。だから福岡が、今までと同じように、東京の下請けをやり、東京の
支店経済の支配下に有る限り、東京への再吸収と、東南アジア全体の中への支店経
済の分散の波に不断におびえる結果になる。しかし、幸いにして、豊な日本の中は、お
そらく、大東京圏、大近畿圏、北東圏(北海道と東北の一部)、南西圏(九州と中四国の
一部)四つの大都市文化圏に分極していくのではないか。その中で、今までの歴史的
経緯と、これからの努力の結果として福岡大都市圏がどれだけの自立性、中心性を獲
得できるか。
 歴史の蓄積の弱い熊本や大分が必死に自立的中心性を追求している。
 もし、南西圏の中での中心性を獲得できれば、アジア太平洋博覧会が目指している
ようなアジア太平洋地域における拠点としての福岡というのも夢ではない。 →
 中心性、拠点性を論ずるならば、その都市は開かれた、今では、世界に向かって開かれ た都市であると同時に、あくまで個性的で、特色の有る町でなければならない。
 博多の人の気持ちは、明らかに外に向かって開かれ、そして、内には高い都市生活の水 準を維持してきた。
 だが、博多の町は、世界的な視野から見て特色のある、個性的な街になっているか。
 博多はリバティー・シティの歴史の文脈を活かして、アジア太平洋地域のコンベンション・ シティになれるか。

○コンベンション・シティへ
 人が集まるためには、安全で清潔な街、人の心が温かいだけでは不十分だ。街全体に 魅力があり、たくさんのチャーム・ポイントを街うちにも、周辺にも、かかえていなければいけ ない。アフター・コンベンションとは、街中が、集まった人たちを楽しませる仕掛けになってい るということだ。
 気っぷの良い男集、美しい、しかもサバケた女達、美味しい食物だけでは不十分だ。
 まず、美しい自然資源。あの美しかった博多湾と白砂青松の浜辺はどこにいってしまった のか。失ったものを埋立地の中でどう再生するのか。そして糸島や、宗像の海とのつなが りを強化して、博多から、気分に応じてすぐいけるようにすること。そして山。油山、背振、 そして三郡の山並みの中に気軽にもぐりこみ、放心の時を過ごせるようにすること。
 歴史的資源はたくさんある。福岡城跡や西公園、東公園そして大宰府や都府楼はもちろ んのこと、糸島や宗像でも暖かい自然の風景につつまれた、美しい歴史的遺産を守り、発 掘し、育てること。博多の街の中では戦災で全く失われてしまった懐かしい街並みは、たと えば秋月や柳川で見てもらうように広域的なネットワークをもつこと。
 それにしても、異常な速度で肥大化した博多、福岡の街を支える基礎的構造は余りにも 弱い。特に福岡の南部は、まるで骨が無いところに肉だけがついてしまった。この段階で 骨組み(道路、公共交通機関など)を造り直すのは至難の業だが、もし、博多が21世紀に生 き残れる、世界的国家日本の中での拠点的都市圏であろうとするならば、苦しいが果たさ なければならない課題だろう。
 博多には、自前の町人文化、遊び心、他の都市が持ち得ないでいる高い洗練された都 市生活のソフトがある。しかし、これを収めるハードはあまりに無性格ではないだろうか。中 洲の町のおもちゃ箱をひっくり返したような面白さは良いとしても、博多や福岡の町の風景 は広島や仙台の町と変わるところがない。
 博多のソフトの特色をどうハードに表現するのか。しかし、総論賛成、各論反対の空気の 中で、あえて未来を貫く市民の叡智と、リーダーシップの尊重を町興しにどう結びつけるこ とができるかという難しい問題がある。
 リバティ(自由)とは、すなわち、自治をも意味する。自分達のことを自分達で定められな ければ、自治も自由も無い。
 計画の夢を画くことは易しい。だが、骨組みを造り直し、その上に、21世紀に向けて、輝 かしい、楽しい人集めの施設を創り出すことはまったく別問題である。アジア太平洋博覧 会・福岡`89がこのきっかけになることを願って止まない。
 400年の花を咲かせた歴史を、再び生き返らせようではないか。

プロローグにかえて
日本債権信用銀行顧問 蓑原 敬

1987年11月発行の「豊太閤博多町割400年記念誌・博多浪漫」より

博多町割、実行のなぞ
博多町人文化連盟事務局長 日本放送作家協会理事
帯谷 瑛之介

 博多は決して狭い街ではない。
 にもかかわらず、わずか二日間で設計図が完成した。
 その驚異的なスピードは何に裏打ちされていたのだろうか。
 また、設計図に込められた「七」の数字の意味するものは・・・。
 博多の街に込められた、復興の願いを、
 ここで解きほぐしてみよう。

 太閤秀吉が現在の博多町割りを実施して四百年を迎えたが、この町割り実施には二
つの謎がある。
 一つは復興を願い出た博多商人、神屋宗湛の願いを即座に受け入れたわずか三日
後に復興の町割り図が示されたという謎である。旧博多部方四百間、決して狭い街で
はない。そこに道路を作り、町並みを作る。このような大計画がわずか三日目に完成し
たということは謎といってよい。
 もう一つは、七という数字である。町割りは全て七を基準としている。即ち七小路(金
屋小路、市小路、浜小路など)、七番(竹若番、箔屋番、麹屋番、奈良屋番など)、七口
(浜口、蓮池口、渡唐口など)、七堂(茅堂、奥堂、辻堂、普賢堂など)、七観音(東長
寺観音、大乗寺観音、聖福寺観音、など)、七厨子(奥堂厨子、瓦堂厨子、文珠厨子な
ど)といずれも七を基準とし、さらにその集合体として現在の山笠に残っている七流(東
町流れ、西町流れ、土居流れなど)まで、全て「七」という数字を考え出したのか。これ
も素朴に考えれば謎といってよかろう。
 この二つの謎は、従来の「太閤町割」に関する記述では解明できない。そのカギは町
名に仏教に関するものが多いことと、七という数字がまた仏教に深い因縁を持つ数字だ
ということで、このことから今までの記述には登場してこない一人の人物が浮かび上が
ってくる。その人の名は玄蘇景徹、聖福寺109代の僧である。
 設計図の謎について言えば、実はその前年、秀吉は当時九州にいた黒田如水に命
じて博多復興計画を立案させている。
 当時の博多の町は、大友と島津の戦争によって1586年8月焼土と化していた。これ
は島津が撤退の祭に火を放って全市を焼き払ったためで、それ以前にも数回焼かれて
は少しずつ復興していたものを、島津は完全に焼き払ってしまった。
 すでに朝鮮遠征を企画していた秀吉は博多を再興して基地とするべく、黒田如水に復
興図の作成を命じている。如水は家臣の久野四兵衛にその作業を命じ、四兵衛は直ち
に博多を訪れている。このとき千代町から博多に入ろうとしたが、雑草が繁茂して踏み
込めず、土地の人々を動員して草を刈りようやく博多入りをしたというから、博多はまさ
に人ひとり住んでいない無人の荒野であったと思われる。この間のいきさつを「豊前覚
書」にこう記している。
 「博多の町が荒れていたので秀吉は、当時毛利軍を率いて九州に渡っていた黒田孝
高に命令した。そこで黒田方から久野四兵衛、立花城から立花三河入道が箱崎と馬出
町に出て事に当った。博多の焼け跡には高草が生い茂っていたので箱崎から人を出し
て刈り取らせ、離散していた博多の町人を呼び戻した。それから吉日をもって町割りを
始め、12月21日に完成したので、孝高に復命した。」
  四兵衛は検分の後設計図を引き、同年12月に提出しているが、これが今日の町割
り図であったかどうかは判然としない。(一般にはこれが原図とされている)
 かくして島津の侵攻に手を焼いていた秀吉は島津攻略を決心、1587年3月、兵25
万を率いて大阪を出発、九州に入り、5月8日島津の降伏によって目的を遂げ、6月4
日箱崎に入った。 →
 6月7日神屋宗湛は戦火を逃れて疎開していた唐津から箱崎へ入り、翌8日秀吉に面会 し「博多復興」を願い出る。以下このときのことを記した「宗湛日記」には、
 同(六月)十日に関白(秀吉)様、博多ノアト御覧有ル可クトテ、社頭ノ前ヨリ、フスタ(舟 の形式)と申候南蛮船(ポルトガル船)ニメサレ、博多ニ御着候。(以下略)
 同十一日ヨリ、博多町ワリナ也。博多町ワリ奉行衆事、滝川三郎兵衛(雄利)ドノ、長束 大蔵(正家)ドノ、山崎志摩(片家)ドノ、小西攝州(行長)ドノ、此五人ナリ(4名しかなく石 田三成が脱落している)。下奉行三十人有。
 と記してあるように、博多という当時の大都市復興計画の実施はあわただしいほど非常 に早く、しかも秀吉の側近の大物がずらりと顔を並べている。
 日本の権力者のほとんどは農民型だが、秀吉は珍しく商人型で、今日で言えば内閣を 組織して5人のうち3人は経済閣僚である。徳永進一郎氏は石田三成(大蔵大臣)、小西 行長(商工大臣)、長束正家(経済企画庁長官)といっているが、その3人の経済閣僚を地 方の一都市の再興に全員当らせたというところに、秀吉の異常なまでの熱心が見えるの は注目すべきことであろう。しかしもこのとき、博多を「楽市楽座(自由都市)」とする十か条 の「定」を恩典として与えている。
 かくして頭領黒田孝高の下、家臣久野四兵衛を現場監督として、東は石堂川、西は矢倉 門、辻の堂一帯の堀窪地、西は博多川までを限度として次の町々を配した。

  七番=竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、麹屋番、倉所番、釜屋番
  七小路=金屋小路、市小路、奥小路、浜小路、対馬小路、古小路、中小路
  七口=浜口、象口、竜口、川口、堀口、蓮池口、渡唐口
  七堂=茅堂、奥堂、脇堂、普賢堂、辻堂、瓦堂
  七厨子=奥堂厨子、普賢堂厨子、瓦堂厨子、茅堂厨子、麹堂厨子、観音厨子、文珠厨子
  七観音=大乗寺観音、妙楽寺観音、龍宮寺観音、聖福寺観音、東長寺観音、観音寺観音、乳峯寺観音
  この他町として綱場町、今熊町、古川戸小山町、宮内、中間町、北船町、祇園町、鰯町、行町など

 更にこれらの町の集合体として南北に四、東西に三、計七つの「流れ」をつくった。(呉服 町流、東町流、西町流、土居流、須崎流、石堂流、魚町流)
 新博多の出現である。
 これが今までの文献によるいきさつであるが、はじめに書いた二つの謎はどうなっている のか。
 復興計画図の作成については、前年久野四兵衛と立花三河入道によって作成されたこ とにまちがいは無いとしても、ではなぜかくも仏教くさい町割りをしたのか。その謎は解け ない。
 実はこの復興計画の隠れた設計者は玄蘇景徹という坊さんである。玄蘇は復興を願い 出た神屋宗湛の夫人の兄であり、学者でもあり商人でもあり、中国語も堪能で、明の国王 から最高の僧位を受けた当時最高の幅の広い教養人であった。しかも政治力もあった人 で、博多が度重なる戦火で焼けたとき、宗湛と共に唐津に疎開しているが、博多再興を熱 望していた宗湛は玄蘇に依頼して別に復興図を作らせていたと思われる。
 そこで玄蘇は七七「四十九願」の阿弥の本願を込めた「四水四応」の設計図を作成した。 これが「七」の謎で、このことは村瀬時男氏の「博多二千年」にも記されている。
 となれば、「七」の謎と同時に、宗湛が願い出てから旬日を出ずして工事が始まった事も 氷解できる。復興図は秀吉、宗湛双方ですでに用意されていたのである。
 おそらく、秀吉は双方の図を突き合わせ、玄蘇案を土台にして新しい図を作成したのであ ろう。それなら二日あれば作成できたに違いない。

博多町割、実行のなぞ
博多町人文化連盟事務局長 日本放送作家協会理事
帯谷 瑛之介

1987年11月発行の「豊太閤博多町割400年記念誌・博多浪漫」より

博多っ子魂に栄光あれ
西日本新聞客員編集委員 江頭光
 博多べいの移築復元が成った日、「私たちの子ども、そのまた子どもたちは、この前
に立っては方の歴史を語り、限りない未来を語り合う。本当の意味の社会の発展、そし
て文化とはそうしたものであることを信ずる」と書いた。

 嶋井宗室の屋敷跡(博多区中呉服町五)に残る博多べいが風説に饅頭のように崩れ
落ち、ビル建設のため、いつブルドーザーが入るかもしれないと知って、私は「根性の
記念碑を守ろう」と記事を書き続けた。
 昭和44年10月、世の中は経済高度成長によった頃。古い物は容赦なく切り捨てら
れる風潮にあった。
 太閤秀吉の町割りは、どんな風景だったものか。第一歩は、見渡す限りの焼け野原を
整地する困難な作業から始まったに違いない。それは下って昭和20年6月、大空襲に
よる一面の焦土からの復興風景に似て私たちの胸を熱くする。
 天正の昔、見事に復興なった街に、博多べいは豪商宅や仏閣を囲んで連なり、威容
は「博多八丁べい」とたたえられた。石やカワラを年度で積むのは「築地べい」と呼ぶ当
時一般の工法だが、博多のそれは戦国動乱の兵火をくぐった焼け石、焼けガワラととも
に、郷土復興の悲願を塗りこめたという点で、他に類がない。それを訴え、何度も紙面
で保存を呼びかけた。
 1ヵ月後、立ち上がってくれたのは、やっぱり山笠男の落石栄吉さん(博多祇園山笠
振興会顧問)だった。その音頭とりで移築復元期成会が発足する。山笠流れ役員の樋
口武之助、市丸三郎ら六氏を地区委員に一口千円の募金運動が輪を広げた。
 喜寿の記念にというお年寄り。初めてのボーナスからという女子社員。幼い坊やの名
で寄託する若い母親。五百人から総額二百万余円が集まる。大田静六・九州大教授
の入念な指導で、総鎮守・櫛田神社境内に往時の姿を再現したのは、翌45年4月だっ
た。
 がっしりと力強い姿は、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの言う「富貴なる町人自治
の町」「東洋のベニス」を築いた博多商人の豪毅さを示して余りない。
 例年7月15日未明の追い山。暁闇の中、白い水法被姿が一団となって、奔流のよう
に快走する。あのとき、博多べい保存に示した博多っ子たちの心意気と燃え上がりは、
ちょうど追い山の迫力に通じて、目のあたりに見る人間ドラマでもあった。
 博多気質は明るく開放的な中に、どこか骨っぽく、進取の気質に富むといわれる。恵
まれた自然環境や豊かな海山の産物などいくつかの理由があろう。だが、それを歴史
的に探れば、自由で生き生きとした「太閤さま時代」「天領「町人自治」時代」に由来す
ることは確かだろう。
 貿易船は果敢に荒波を越え、博多は堺をしのぐ日本第一の国際都市として朝鮮、中
国対立、ルソン、安南、インドネシアと結ばれた。岸壁や大通りを紅毛のカピタンや黒い
肌の乗組員達が明るく行き交った。さまざまな人と貨物と華やかな話題が集まって散
る。想像すると胸が躍る。
 徳川時代が来て、鎖国のため博多は海を奪われる。国際都市・博多はこのとき、残
念にも平凡な地方都市に滑り落ちた。永い眠りの後、明治維新の夜明けとなるが、命
じ22年4月、福岡市が発足したときはるか先を走る先進都市は長崎、熊本、そして鹿
児島。マラソンで言えば、福岡市は第二集団にあった。 →
 だが、ここで博多っ子たちの向こう意気と郷土愛が爆発する。よく知られる市名改称騒ぎ は、その象徴でもある。
 福岡市のままか、博多市に改めるか、両派は世論を二分して気勢を上げる。明治23年2 月の第二回市議会では、互いに13票の同数で譲らない。ついに議長の一票を使って、福 岡市に決まるという一幕があった。
 私はこのエピソードを初めて聞かされたとき、なんと時代錯誤のナンセンス劇かと思った が、やがて認識不足を恥じた。あのとき博多市への改称を唱え、懸命に奔走した人たちは 「博多」の二字に「再び日本一の商人天国を」の夢と誓いをかけた。日本一が無理なら、せ めて九州第一の雄都にと熱い血をたぎらせたのに違いない。その後、博多っ子たちの、が むしゃらな突進ぶりが、それを証明している。
 例えば奇商・八尋利兵衛。本業は漬け物屋のおやじさんだが、商用で大阪に出て蛭子 市の活況を見ると、これを博多名物にと足を棒にして協賛者を募り、誓文晴れ(現在の博 多大せいもん)を創設する。
 東京で向島遊園地のにぎわいを知ると、さっそく那珂川住吉土手に遊園地を造ろうと提 唱し、実現させる。戦後ひところまであった「住吉向島」の町名は、これによる。清流公園に 移築保存された巨大高灯ろう(現在で言えばネオンサインか)は当時のもので、これも博多 っ子魂の記念碑と呼んでいい。
 利兵衛はまた、東京浅草で名物の12階建てを見ると「負くるもんなツ」と8階建ての高砂 館を建て、両国の花火を見ると那珂川を隅田川に見立て花火大会を試みる。現在も場所を 大濠公園に移し、受け継がれている。
 頑張ってくれたのは利兵衛だけではない。愉快な町のおいしゃん(博多言葉で、おいさ ん)が、そこここにいて、本業の損得勘定貫に町のため走り回った。そうした例は他にもたく さんある。
 こうした踏ん張りで電灯事業(明治30年)、福岡歯科大学(九大医学部の前進)誘致(同 36年)、博多大築港(同41年)などの後、明治43年春、第13回九州沖縄連合会共進会 に九州で最初の市内電車が走る。
 共進会の町づくりを機に、福岡市は「九州第一の雄都」を自他ともに許すにいたるのだ が、この明治大躍進、それはそのまま「太閤さま時代」の「楽市楽座」風景の再現だったと いえるのではなかろうか。
 博多気質の大切な特徴に、ザックバランな気安さと人情味がある。外来者が道をたずね ると、ごりょんさんが前かけで手をふきふき現れ、通りの角までも案内して教えてくれた。 私は先年、姉妹都市ニュージーランド市で、老婦人から同様な親切を受け感激した。「親切 な町」の心こそ、博多が失ってならないものの一つだろう。
 コンベンション・シティー。ウォーター・フロント構想。なにやら舌を噛みそうな呼掛けも、考 えてみれば、なーんだ、太閤さま時代、そして明治大躍進に大先輩の博多っ子たちが、と っくにやってのけたことなのかもしれない。
 博多べいの移築復元が成った日、胸を弾ませて「私たちの子ども、そのまた子どもたちは この前に立って博多の歴史を語り、限りない未来を語り合う。本当の意味の社会の発展、 そして文化とは、そうしたものであることを信ずる」と書いたのを思い出す。
 この願いは太閤町割り四百年を迎え、ますます強い。博多っ子魂に栄光あれ。


博多っ子魂に栄光あれ
西日本新聞客員編集委員 江頭光

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