■ 地域・家族・コミュニティ ■
1994.10.22
九州大学助教授 竹沢尚一郎
○家族の悲劇
 私達は今日、地域のことを考えるためにどこから出発すべきなのか。戦後のリベ
ラル一辺倒の価値観の導入によって、全国の都市や農村で破壊つくされたかの
様に見える地域社会の再建を、どこから試みればよいのだろうか。とりわけ、地域
と密接に結びいついているはずの家族の崩壊という事態を前にして、私達の思考
の可能性はどこにあるのか。
 家族の悲劇。それは今日ではいたるところに潜んでいる。
1992年6月4日、埼玉県浦和市で、県立高校の教師とその妻が、長年家庭内
暴力を振るった長男を殺害するという事件が起こった。殺された長男は県立浦和
高校を中退後、大学検定試験に合格して立教大学に進学。しかし大学ではサー
クル活動に熱中して学業を放棄し、それと並行して家庭内では頻繁に暴力を振る
うようになる。そこで家族と長男の将来を悲観した両親が、睡眠中のわが子を包
丁で刺し殺したのであった。この事件の父親は、「障害市教師」をモットーに熱心
な授業と指導によって高校生と親から慕われており、母親もまたPTAや地域活動
に熱心な親であった。
 私がこの事件を取り上げたのは、他でもない。この事件は、この10年ほどに起
こった一連の事件の中でも代表的なものと思われるからである。1979年1月東
京世田谷で、祖父と父を大学教授に持つ高校1年の男子が祖母を殺して自殺。1
980年11月川崎市で、受験浪人生が父母を金属バットで殺害。1990年8月甲
府市で、19歳の受験浪人生が両親を刃物で殺害。1992年高知市で、「地味で
暗い性格」の高校1年の姉が、「陽気で快活な妹をねたんで」殺害。家族の悲劇
を物語る事件は途絶えることが無い。
 戦後、少年犯罪の原因については共通の認識があった。離婚などによって生じ
た貧困や片親の欠如、モラルの欠如などが子供の非行を生むという、いわば欠
如による説明である。ところが1980年代以降、このパターンでは説明できなくな
る。金銭的な余裕があり、子供との対話も心がけた「理想的な」家庭における悲
劇の増加である。1980年代初頭には、妻達の心の空白をあらわした斉藤茂男
の「妻達の思秋期」や林郁の「家庭内離婚」、更にはいわゆる金妻物の番組がブ
ームとなったが、これらも平凡な家庭生活には満足できない心情をあらわしたもの
として、私達に深刻な問いを投げかけている。→


























 私達はどのような家族の形態を生きて祈り、それは地域の形態変化とどう関係
しているのか。両者の形態の変化を、わが国がたどった近代化の家庭のなかに
あとづけること、それが私の発表の課題である。

○家族とは何か
 家族とは何か。
 皆さんが想像する家族とは、次のようなものだろう。サラリーマンないし自営業
の父親と、細々と子供の世話を焼く母親、そして学校に一致ルカ、勤めている2人
の子ども。しかしこうした家族の姿は、人間にとって少しも普遍的なものではな
い。
 サラリーマンという職業は、西洋では18世紀以降、日本では大正以降の産業
革命の進展が生んだものであって、それ以前には存在しなかった。また、2人の
子ども、それも高等教育を受けているというのも、第2次世界大戦後もたらされた
形態である。更に子どもの世話を焼く母親のイメージにしても、母親は商売をして
いたり、農業に従事しているのが一般的だったのであって、主婦という概念はわ
が国では大正以降生まれたものにすぎないのである。
 文化人類学によれば、家族とは世界中に存在する普遍的な人間の結合形態で
ある。しかしその内容は文化によって大きく異なっている。そこで文化人類学では
次のようなさまざまな機能を上げ、そのいくつかが重なっているものを家族として
定義している。
  ・血縁と性による結びつき・・・(持続的な結びつき)
  ・ともに居住すること・・・・・・・(夫婦・親子が同じ家に住む)
  ・情愛による結びつき・・・・・・(夫と妻、親と子)
  ・生産の単位・・・・・・・・・・・・(農業、商業、家内工業)
  ・家計の単位・・・・・・・・・・・・(消費支出の単位、ともに食事をする)
  ・教育としつけ・・・・・・・・・・・(子供の基本的しつけ料理や生業の伝達)
これらの機能の内、現代の家族の多くは生産の機能を果たしていないし、残業等
によってともに食事をする機会も減っている。又単身赴任で、居住が別になってい
るケースも多い。その意味で、現在私達が営んでいる家族の形態は近代的な一
変型、しかもごく特殊な一変型にすぎないのである。

○家族と地域社会
 それでは、近代以前の社会において、人間の結びつきの基本はどこにあったの
か。↓

 近代以前の社会において、人間にとって重要なのは「生存」の機能であった。そ
のため農家であれ商家であれ親子の区別なく総出で働くことが必要だったし、職
人や小市民の場合には子どもは早くから家族の外に出された。民俗学によると、
わが国では子供は日稚児さんの儀式までは親元で育てられるが、それを経ると
子守や丁稚、奉公人として家族の外に出されることが多かった。そのため彼らの
しつけや教育は親の手を離れて、地域社会や主人の家にゆだねられていたので
ある。
 地域がいかなる機能を果たしていたかについては、福岡市の過去を見ていこう。
福岡市はご存知の様に明治22年に、黒田藩の城下町である福岡と、商業都市と
しての博多が合併して形成されたものである。明治22年の資料によれば、旧博
多部の戸数5,144、人口29,595であり、一戸あたりの人数は5,75人と核家族
が一般的であった。
 その中で、旧博多部の人々の社会生活はどうであったか。その基本を形作って
いたのは、櫛田神社の夏祭りである山笠であったと思われる。これを見ると、家々
屋町の形はまったく異なっているのに対して、山の高さがちがうことを除けば、衣
装や参加者の意識などの点では今日とあまりの共通性があることに驚かされる。
 ご存知の様に、旧博多部は7つの流=集団に分けられ、それぞれの流は10あ
まりの町、そして各町は25戸から100戸程度の家からなっていた。家どうしが密
接して建てられ、水や衛生などの理由から生活の共同があったために各町内の
連帯意識は極めて強く、町どうし、流どうしで対立が繰り返されていたことが記録
に伝えられている。
 山笠は、町の人々にとっていかなる機能を果たしていたのだろうか。まず第一
に、教育機能が上げられる。町内に誕生した子供は、生まれるとすぐ親の手に抱
かれて祭りに参加したし、15歳ぐらいになると、子供は若手として一人前に扱わ
れ、さまざまなしきたりを教えられた。そして10年程度の経験をつむと赤手拭にな
り、社会的な信用も付与された。更に取締、総代と役職を駆け上り、亡くなると、
故人の家まで舁き山を進めて全員で「博多祝い歌」が歌われる。かくして山笠は、
人間がどう生きていき、どう死を迎えるべきかというモデルを提供していたのであ
る。
 さらに山笠の持つ美的機能が考えられる。山笠は町ごとに異なる柄の法被を着
用するが、それは互いの識別と同時に、美的な象徴でもあった。また毎年山飾り
を作り変えるために、博多の町の中にその技術者の養成が可能であったし、いく
つかの流の山を見て歩くことで鑑賞眼が養成された。更には、1トンもの山を担い
だまま5kmを走りぬくために、担ぎ方や押し方、走り方など、体の使い方が教え
られたが、→


























これはいまだ学校教育で体育の授業が与えられなかった時代には、重要な意味
を持っていただろう。
 それに加えて、目上の人間に対してどう振舞うべきか、役員になったときに目下
の人間をどう動かすかなどの対人関係の教育。そして、町内の長老や流の役員
などの社会関係の把握と、町や流を越えた交渉の仕方。さらにはもめ事が生じた
ときの調停の仕方など、社会生活を維持していくための知恵と技術。こう見てくる
と、過去には地域社会こそが人々の全人格の教育の単位であり、それと同時に
親密な情愛の単位であったことが理解される。

○国家による地域社会の解体
 しかし沿うぢた複合的な機能を果たしていた地域社会は、明治以降、国家によ
って解体されていった。その点は、明治国家であれ西欧の諸国家であれ、近代国
家の方針は変わらなかったのだが、その狙いは次の点にあった。つまり、それま
での社会生活の基盤であった地域社会の独自性を解体させることで、全ての人
間を中央国家の元に統合しようとしたのである。
 国家が地域社会をどのように解体させていったのか、それおwもう少し詳しく見
ていこう。その典型的政策は、地域社会の結束の象徴である祭りの禁止であろ
う。元来、祭り及びその単位としての神社は地域独自のものであり、中央と地方
の格差は存在しなかった。しかし明治政府は地域の独自性を損なわせるためにさ
まざまな形で介入した。明治4年には全国の神社を分類して、官幣社、国弊社、
府県社、郷社、村社、無格社というヒエラルキーを設けた。同時に神職の世襲制
を廃止、任命制とすることで神道思想の国家統制を開始した。ついで明治8年に
は国民の祭日を制定する一方で、地域の祭りを抑圧した。博多の山笠も、明治5
年から15年まで、乱費と風紀の乱れを予防するという理由で禁止されたのであ
る。
 このようにして地域の独自性を損なわせるのと並行して、明治国家は個々人に
直接的に介入した。それまで地域ごとに行われていた教育にかえて学校教育を
導入して、義務教育による国民の参加を強制した。又、地域に根ざした産婆にか
えて国家免許による産科の医師を配置することで、人間の根源的な領域である
性の次元にも介入した。そして学校では、ラジオ体操や朝礼などによって画一的
な体の動かし方を教え、地方ごとに音色と抑揚がちがう民謡にかえて静養音階
の消化を導入した。こうした体の使い方とリズムの統一は、国民皆兵による近代
的な軍隊の創設のためには不可欠なものであった。↓

 それに加えて、人間の価値観や嗜好品への介入。学童や女学生には制服が定
められ、彼らの頭髪の形も画一的に定められた。更には、天皇の神格化と教育勅
語などを通じての思想の統一。こうした統制を重視する見方は、敗戦によって戦前
の価値観が一掃された戦後も継続され、うるさいほどの校則の制定と、産業社会
に適した高学歴で無批判な学生の育成に力が注がれた。隠して地域の枠を奪わ
れた人々は、国家を前にして、裸の個人として向き合うことを余儀なくされたので
ある。

○戦後の地域政策
 全てを国家に一元化しようとした明治国家は、敗戦とともに終焉する。しかしそれ
は、地域社会や家族の絆を再建したわけではなかった。戦後の産業振興策は、
地方の住人を根こそぎ都会に移住させることで地域社会の荒廃をさらに進めた。
又戦前には、男性の家長が家庭内をとりしきるいわゆる家父長制が支配的であっ
たため、その反動としてアメリカ譲りのリベラル民主主義が理想とされ、地域社会
や家族の絆は個人の自立を妨げる要素として否定された。
 昭和30年代から40年代にかけて、高度成長が生み出した都市の勤労者は、
新しい価値観と生活の様式の確立を求めたが、それは彼らの生活が丸ごと産業
社会の理論に飲み込まれることでもあった。昭和30年代に日本住宅公団は、家
族そろって食事をする居間を中心にした2DKの団地を提唱し、以後のライフスタイ
ルを決定した。又、それより豊かな層のためには、郊外に一戸建てが建設され
た。しかしそれは勤労者に多大の借金を負わせることになり、長時間の残業をや
むなくさせた。又、公害の団地や一戸建ては個々の住宅の孤立と、住宅の内部で
の個室による個人の孤立をもたらし、人間関係は冷え冷えとしていった。少年犯罪
や校内暴力の多発など、今日の社会問題の多くが郊外の新興住宅地で行ってい
ることは、そうした政策と決して無縁ではない。
 一方、家電各社は生活の便利さを求めて種々の電気製品を開発し、新しい住宅
を洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの製品で埋めつくした。と同時に、一家に一台とい
われるモータリゼーションが進行したが、これらの高額な商品を購入するために
も、高い学歴を経て一流会社に就職することが必要にされ、進学塾が過熱を見
た。そうした中で、社会全体のシステム化に対抗しうる場としてマイホーム主義が
称揚されたが、それは逆にいえば、身体の再生産から心情の慰撫にいたる、全て
の責任を家族に押し付けるものであり、当然のことながら家族はそれに耐えること
ができず、冒頭で見たように家族の破壊を告げる出来事があいついでいるのであ
る。→


























 いじめ、家庭内暴力、校内暴力など、年少期から始まる一連の反逆に加え、そ
の過程を「無事に」通過した大学生を待ち受けるオウム真理教をはじめとする新宗
教の罠。システム社会の防御壁としてのマイホーム主義は、すでに崩壊している
というべきだろう。

○コミュニティとアソシエーション
 地域社会や家族の崩壊によって人間関係が希薄化し、全てが国家に吸い取ら
れていく状況の中で、いったい何がそれに対抗し得るのか。人間の社会関係を研
究する学問としての社会学の課題は、まさにその問いであったし、今もあり続けて
いるのである。
 社会学においては、人間集団の形成原理は一般にに2つに分けられている。1
つは、家族や地域社会など、自然発生的で全人格的なつながりにって維持される
ものであり、ゲマインシャフトやコミュニティなどと呼ばれている。もう1つは、ある目
的を実現するために契約によって結ばれた集団であり、ゲゼルシャフトやアソシエ
ーションと呼ばれるものである。越えには、企業や営利団体のような利益を追求す
るものから、市町村、さらにはクラブや財団法人、生協、NPO、NGOなど、それ以
外の目的を持つものもある。
 人間の歴史においては、コミュニティからアソシエーションへという全体的な流が
あることは疑いない。たとえば私達の生活を考えても、過去には日本人の生活の
多くは自給自足的な傾向をもち、食糧の自給を初め、薪などの燃料、家屋を作る
木材や屋根の素材、飲料水の獲得と糞尿の処理にいたるまで、村や町を単位と
して独自におこなわれていた。しかもそれらは、用水路の共同管理や、村付近の
山や野原を入会地として共同利用する慣行によって、農村の共同体の経済的基
盤となっていたのである。ところが今日では、食料や燃料の獲得にせよ、飲料水
の確保や糞尿の処理にせよ、私達の手を離れ、会社や市町村などのアソシエー
ションを介さないでは生活は一日も成り立たないほどである。
 しかし、だからといって、私達がコミュニティの要素を全て失ってもいいのかとい
えば、それでは私達の社会が成り立たないことも明らかだろう。実際、それに対抗
する試みが相次いでいるのである。例えば、産業化が急速に進行した60年代以
降、そうした傾向性に対抗する運動として、各地に小さな小集団(コミューン)が形
成された。それと並行して、福岡市の中洲にあるイエスの方舟や、教祖の死後、
若い信者達が後追い自殺をしたことで知られる心理(みち)の友教団など、小規模
な宗教運動も↓

相次いでいるのである。
 更には、この博多部も含めて、全国各地で続けられている村おこし、町おこしの
運動。これらは地域に活力を取り戻し、人間的な結びつきをより強くすることで、共
同の意識によって支えられるコミュニティを作り上げようとする運動であり、その内
のいくつかは過疎の村に活気を取り戻すことにも成功している。
 これらの試みがどれだけ成功を収めるルカ。コミュニティからアソシエーションへ
という流が歴史的な傾向であるととすれば、それを180度変えることはきわめて困
難なことであるに違いない。ましてや、コミュニティがすっかり崩壊してしまったよう
な大都会や、過疎に苦しむ農村の多くでは、その再建はほとんど不可能であろ
う。
 その意味で、いまだ伝統的な祭りが機能しており、それを通じて人間関係の濃
密さが曲がりなりにも維持されている博多部には、コミュニティ再建の可能性が残
されている。何がコミュニティ再建の秘策であるのか。これまでの社会学は、その
点で多くの研究の積み重ねがあるにはあるが、具体的な成果となると心もとない
限りである。その点で、いかなる教訓をももたらさなかったといっても過言ではな
い。とすれば、あとは住民一人ひとりの実践と熱意が残されているばかりであるの
かもしれない。

○地域社会の再建について
 地域社会を再建するとはどういうことか。博多をよみがえらせるのに、何が必要
なのか。
 私自身の経験から言えば、博多の町を歩いていて、楽しいと思ったことはほとん
ど無い(御供所の一部を除いて)。どこでも同じような再開発のビルが並び、地上
げのあとは無残な駐車場になり、横断するのが恐ろしいほどの大通りが町を寸断
している。それでも、6月1日の山笠振興会の総会が過ぎて、長法被を着た男達
が姿を現しだすと、博多の表情は一変する。→


























 おそらくそれぞれの土地は、一つの魂を持っているのだろう。魂といっても、何も
宗教的な意味で言っているのではない。それは神様が与えたものでもなければ、
自然が作り上げたものでもない。何百年、何千年という人間と自然との共同作業
が作り上げ、生命を吹き込まれた魂である。まちづくりとは、ある土地にいき、住
み続けることを決意した人間の行いであるとすれば、それはその地の魂をよみが
えらせることだと言い換えても良い。そして魂という言葉がなにやら怪しげであると
すれば、土地と人との結びつき、その土地に住む人と人との結びつきを復活させ
ることだといっても良い。
 カネがあり、ヒトがいて、モノがあるのが高度な社会であり、発達した都市である
といった発想は覆さなくてはならない。人と人との結びつきは、単に人が大勢集ま
れば生じるものではない。それはいわゆる群集に過ぎないのであり、集まった
人々の間に連帯が生まれるためには、共同して行為を行うことが必要なことは、
何より祭りが私達に教えてくれていることであろう。
 とはいっても、価値観の多様化した現代社会で、祭りだけに人間の連帯の根拠
を求めることは不可能である。祭りを始め、さまざまな共同の行為を積み重ねてい
くこと。その向こうにhこそ、ほのかにコミュニティの再建の可能性があるのではな
いか。その一環に、この「博多まちづくり学校」が位置づけられたらと思う。
 いま一度いおう。博多には地域社会の再建の可能性が残っている。博多にそれ
が失われたとき、もはや日本に地域社会は存在せず、全ての土地の魂が死んで
いるのかもしれない。


1994.10.22
九州大学助教授 竹沢尚一郎

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竹下輝和(都市にどう生きるか)  本間義人(まちづくりの原点)

あいさつ文