1987年11月発行の「豊太閤博多町割400年記念誌・博多浪漫」より
博多っ子魂に栄光あれ
西日本新聞客員編集委員 江頭光
博多べいの移築復元が成った日、「私たちの子ども、そのまた子どもたちは、この前
に立っては方の歴史を語り、限りない未来を語り合う。本当の意味の社会の発展、そし
て文化とはそうしたものであることを信ずる」と書いた。
嶋井宗室の屋敷跡(博多区中呉服町五)に残る博多べいが風説に饅頭のように崩れ
落ち、ビル建設のため、いつブルドーザーが入るかもしれないと知って、私は「根性の
記念碑を守ろう」と記事を書き続けた。
昭和44年10月、世の中は経済高度成長によった頃。古い物は容赦なく切り捨てら
れる風潮にあった。
太閤秀吉の町割りは、どんな風景だったものか。第一歩は、見渡す限りの焼け野原を
整地する困難な作業から始まったに違いない。それは下って昭和20年6月、大空襲に
よる一面の焦土からの復興風景に似て私たちの胸を熱くする。
天正の昔、見事に復興なった街に、博多べいは豪商宅や仏閣を囲んで連なり、威容
は「博多八丁べい」とたたえられた。石やカワラを年度で積むのは「築地べい」と呼ぶ当
時一般の工法だが、博多のそれは戦国動乱の兵火をくぐった焼け石、焼けガワラととも
に、郷土復興の悲願を塗りこめたという点で、他に類がない。それを訴え、何度も紙面
で保存を呼びかけた。
1ヵ月後、立ち上がってくれたのは、やっぱり山笠男の落石栄吉さん(博多祇園山笠
振興会顧問)だった。その音頭とりで移築復元期成会が発足する。山笠流れ役員の樋
口武之助、市丸三郎ら六氏を地区委員に一口千円の募金運動が輪を広げた。
喜寿の記念にというお年寄り。初めてのボーナスからという女子社員。幼い坊やの名
で寄託する若い母親。五百人から総額二百万余円が集まる。大田静六・九州大教授
の入念な指導で、総鎮守・櫛田神社境内に往時の姿を再現したのは、翌45年4月だっ
た。
がっしりと力強い姿は、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの言う「富貴なる町人自治
の町」「東洋のベニス」を築いた博多商人の豪毅さを示して余りない。
例年7月15日未明の追い山。暁闇の中、白い水法被姿が一団となって、奔流のよう
に快走する。あのとき、博多べい保存に示した博多っ子たちの心意気と燃え上がりは、
ちょうど追い山の迫力に通じて、目のあたりに見る人間ドラマでもあった。
博多気質は明るく開放的な中に、どこか骨っぽく、進取の気質に富むといわれる。恵
まれた自然環境や豊かな海山の産物などいくつかの理由があろう。だが、それを歴史
的に探れば、自由で生き生きとした「太閤さま時代」「天領「町人自治」時代」に由来す
ることは確かだろう。
貿易船は果敢に荒波を越え、博多は堺をしのぐ日本第一の国際都市として朝鮮、中
国対立、ルソン、安南、インドネシアと結ばれた。岸壁や大通りを紅毛のカピタンや黒い
肌の乗組員達が明るく行き交った。さまざまな人と貨物と華やかな話題が集まって散
る。想像すると胸が躍る。
徳川時代が来て、鎖国のため博多は海を奪われる。国際都市・博多はこのとき、残
念にも平凡な地方都市に滑り落ちた。永い眠りの後、明治維新の夜明けとなるが、命
じ22年4月、福岡市が発足したときはるか先を走る先進都市は長崎、熊本、そして鹿
児島。マラソンで言えば、福岡市は第二集団にあった。 →
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