ま ち づ く り メ モ   

まちづくり活動の中での、いろいろな体験や感じたこと考えたことなど、
誰かの何かのためになるならと、少しずつ、注意しながら、書き留める。

財団法人 福岡都市科学研究所の設立10周年懸賞論文の最優秀賞
2025年の福岡 (私が描く未来のふくおか)

 日本は「道州制」になっており、福岡市は九州の州都になっている。九州
独自の「州民自治法」を持ち、九州型民主主義社会づくりへの試みがスタ
ートしている。自治組織は州議会・地方議会・地域コミュニティの三つに編
成され、いわゆる県議会はない。
 人々は州都を福岡とは言わず、「博多」と通称名で言っており、州議会で
は「このさい州都地名は『博多』とすべきでは」と議論になっている。
 九州各地域では、地域生活経済共同体としての取り組みが盛んに行わ
れており、その活動は州都にある「アジアまちづくり支援センター(独立機
関)」に受信され、また発信されている。健全な地域間競争と、地域づくりの
知恵の共有、それに各地域の有機的関係づくりに大きな役割を果たしてい
る。ハビタットへの最大の協力機関であった。
 福岡市は州議会直轄の特別自治区であり、自由貿易都市となっている。
九州内外各地域の福岡事務所があり、九州はもとよりアジアを中心に諸外
国の人・物・情報・文化の一大国際交流拠点となっている。九州各地のア
ンテナ基地であり、九州・アジアの人々のサロンであり、情報の問屋であっ
た。
 世界各国の領事館があり、外国人街や中華街などアジア文化が共存し
ている。多文化共生を可能にしているのは、特別自治区各地域住民の自
治意識・まちづくり意識の高さであった。
 各地域の自治組織は1〜2万人ぐらいのコミュニティ単位に再編され、健
全で金のかからない地域間切磋琢磨社会ができている。公民館は「特別
自治局協働課」が管轄しており、充実したコミュニティから順にその運営組
織をNPO化し、社会各セクターによる日常的協働の現場となっている。ここ
でのまちづくりNPO事業は、老人や女性の社会参画の場であり、地域の大
きな経済活動となっている。
 福岡都心部は、双子都市としての個性を活かしたまちづくりが行われ、特
に博多部のまちづくりを世界から見学者が訪れている。都心部の空洞化対
策(1998年の博多部振興プラン)は地・官・学・商の協働体制づくりに時間
がかかったが、都市と居住を切り口にした土地の共同化や博多の宝の再
生など、このリーディングまちづくり事業は全市に波及している。
 都市を拡大することの不合理は共通認識となっており、集中してコンパクトに人々が暮らすため、都心居住はより高い目標を掲げるべきだと2001年に見直されていた。都心居住政策と博多部まちづくり憲章は合体し、まちづくり条例となっている。それは都心部の土地の公共性を前面に出した、街区単位での住環境創出であり、自前のまちづくり計画・都市建築文化への挑戦であった。
 例えば、四街区に一つの割合で共同駐車場が設置され、建物1階や空き地的駐車場は姿を消していた。また、街区単位での共同建築が競って行われており、創出された空間はコミュニティ空間(公園)となっている。世代サイクル可能な住戸計画がなされ、建物の窓は草花でデコレーションされ町中が飾られている。街路樹はコミュニティ単位で管理運営されており、地域住民が樹木の種類も決めている。
 そして、博多湾岸は松原公園化が進みタンク群は隠れ、湾岸海上交通が整備されている。都心部の電線などは全て埋設化され、7月には10mを越える山笠が走っている。ドンタクは国際色にあふれ、パレードは博多部を回遊し、いろんなコミュニティでの無礼講としての祭りになっていた。
 須崎公園はラグビー・サッカー場となり、都心部の競技場として早朝・夕方とたくさんのクラブチームが使っている。大会はいつも観客で一杯になり、アビスパもそれにつられて強くなっている。
 一方、郊外のベッドタウン空洞化が社会問題となっており、都心部近郊の「都市圏農村構想」が議論されている。また、若年層の社会教育と家族論が、義務教育のあり方とともに大きな社会的テーマとなっていた。
 九州的取り組みの一つとして、東洋医学と西洋医学の対等な関係づくりがあった。西洋医学一辺倒の病理観から医食同元・自然治癒力重視の東洋医学的病理観・知恵の復権である。九州の医療費は断然低く、世界からの研究者が州都に集まっていた。
 商都市、国際都市、自治都市、双子都市と歴史的にも形容されていた、福岡都市圏のアイデンティティとも言える博多を、今再び九州・アジアの「博多(博多湾一帯)」として復活させつつあった。それは、人と自然の優しさに育まれ、文化と文明が息づく、古くて新しい交流拠点都市「博多」の姿だった。
1998

博多祇園山笠「自治」 と まちづくり「自治」
平成19年の山笠が終わって

 平成19年7月15日早朝、今年の山笠が終わり、そして来年の山笠が始ま
った。大きな事故もなく、無事に執り行われたことは大変喜ばしい。
 しかし今年は台風4号のおかげで、山の歴史に残る1年となった。本来15
日の山笠終了後の作業である山小屋の一部解体や人形飾り降ろしなどが
13日14日に行われたりと、各流の当番町(流を構成する町の中でその年の
流全体の世話をする町)をはじめ関係者はその対策に追われた。山笠も、
14日の流舁き(流を構成する町々を舁きまわり清める)のスタート時間を早
めたり(台風による強風の時間帯を避けるため)、各流の行事も対応した。
博多の年寄りも、こんな体験は記憶がないといっている。
 都心部で行われる大掛かりな祭りでこういう臨機の対応ができるのも、単
なる関係業者の協力だけでなく、山笠運営を仕切っている博多の人々の
「自治する意識」の賜物であろう。

 博多祇園山笠のすばらしいところはこのように、地域自治を体現している
ことである。運営にあっては助成金もあるが、それは全体費用の一部であ
り、運営費のほとんどを各流各町の参加者が負担している。参加者全員が
運営費の負担をし、参加者全員の自主性・主体性と合意(手一本)で行わ
れるからこそ、多くの地域住民や町外からの参加者があるのである。また、
誰か一部の人のためにするのではなく、博多のみんなためにする(祭りの
起こりは博多からの疫病退散)ことが貫かれているから七百六十年以上も
続いているのである。
 私は山笠期間、山大工(山の台をつくる)をしているが、山台に舁き棒(長
さは約3間=5.4メートル)をロープで固定する「棒締め」という作業のとき、こ
の自治の精神が生きていることを誰よりも実感することができる。当番町は
毎年、この棒の高さや前後の位置決めには大いに神経を使う。舁き手の意
見を聞き・反映し、流全町が納得するようにしなければいけないのである。
山大工が勝手に決められないのである。

 舁き棒は円柱状で6本ある。正面(表)から見て右側3本を右肩、左側3本
を左肩と呼び、それぞれ外側から1番棒・2番棒・3番棒と名づけられている。
そして棒は両端が細く中央部が太く加工されている(ロクロ加工)。だから、
棒の先端(棒鼻)は棒の中央部(台下)より高い位置にあることになり、棒
鼻と台下では担う人の背格好が違ってくることになる。
 また、棒は棒ぐりで受けるが、そのくり方(深さ)は中央から外側になるほ
ど高くなるように削られているから、1番棒が一番高く、3番棒が一番低いこ
とになる。そして、棒の前後の位置関係は、表側に少し出されているが、こ
のことによって表側(台の前)は見送り(台の後)側より少し高くなる(棒の
先端と中央部の太さの違いで)。また場合によっては、棒自身の曲がりを調
整したり、棒ぐりの段差以上の差をつけるため、棒と棒ぐりの間に薄い板を
敷いたりもする。この他に「きゅうり舁き」と言って、1番棒の中央部(台横)
に担ぐところがある。これだけでも十分に高さは低いのだが、ここの棒下部
に2〜3pの木製のカバーをしてより低くしている流(大黒流)もある。

 このように担ぐ棒の高さを、棒の形や台への固定の仕方で、13通りに変
えている。言うまでもないことだが、これは、あらゆる背格好の人が山を担
えるようにするための工夫なのである。山台にはこのような、「自治の精神
と知恵」が込められている。

 このほかにも「自治」を大事にする知恵が山笠にはある。箇条書き的にな
るが、いくつか記す。
手一本:大掛かりで危険性もありお金もかかる祭りだから、全員一致を
 見るまで話し合われ、ここで得られた合意は反対意見者も従うことを誓う
 ための形が手一本である。意見が煮詰まり時間が来れば、少数意見者
 は自ら身を引くことも必要になってくる。しかし、あくまでも、全員一致だか
 ら、1町でも反対があれば事は決しない。
当番町:流は10町前後で構成されているが、その年の流の世話をする
 町を当番町という。当番町は毎年順送りされ、構成員全町が行うことにな
 っている。これは、権力・権限が1町に集中する危険を防ぎ、全町が世話
 をする大変さを学ぶための知恵である。流によっては、流当番や世話当
 番というのがあり、町の住民流出やいろいろな事情で、全町的運営をして
 いるところもある。
山笠振興会:流すべてで構成され、流全体のために世話をする組織で
 ある。昔は1番山笠がそれを担っていたが、戦後に振興会ができた。各流
 の上位組織ではなく、流全体や対外的な調整を行う合意づくりの場であ
 る。
総代と現役:各町に年寄りが務める総代や、若手が務める取締・赤手
 拭の役員がいる。年寄りは町や流全体の山笠ができる環境づくりを担
 い、若手は山笠を動かすことを担う。そこは厳然と区別されている。長幼
 の序があるとはいえ、役割が違うだけで責任の重さは同じである。

 以上、これまで書いてきたように、博多祇園山笠には「博多の自治の精神と知恵(地域生活共同体である博多のみんなが仲良く楽しく暮らしていく知恵)」が込められ、博多の先人から今日の我々へと継承されてきた。しかし今日、この山笠運営全てにわたって、山の本質を揺るがすような状況・現実がある。
 「山笠があるけん博多たい」というコマーシャルがあるが、この言葉には大きな危険性がある。博多を憂うものなら「何という馬鹿なことを言うんだ」と思うはずだが?、「山笠さえ動いていれば、山笠さえやっていれば博多はすごいのだ」と思い込んだ、何のために山をするのかを考えない山笠馬鹿を生む危険性だ。
 山は博多のためにするもので、決して山のためにするものではない。だから本当は「博多があるけん山笠たい」である。それが分かっていれば、博多の現状を憂うならば、山の本質を知らない者のたわごとだと、このコマーシャルを黙って笑って見過ごせないと思う。

 博多の誇りである山笠は、見えない危機にある。地の人間が極端に少ないのである。博多部外からの山笠応援団の世話をし、運営の段取りをする地の人間の負担の大きさも限界を越えているが、町の住人が実質的に1世帯とか2世帯の町の姿は「山笠を動かす組織」とならざるを得ず、本来の博多自治でなく山笠自治となっている。つまり地域コミュニティが山笠コミュニティになっているのである。残念ながらこの弊害は、外からは見えない。
 その実態は文字にするのもはばかられるほどの大問題で、博多の自治を体現し誇りとする山笠の運営が、音を立てて崩れているのである。博多にこれを食い止め再生する自然治癒力はあるのか、つまり、健全な博多の町を取り戻そうとする人は残っているのか!?。
 昭和21年、戦後の博多に初めてオッショイの掛け声を出したのは奈良屋小学校の子ども達で、その標題は「みんなの博多みんなで復興」。・・・・マスコミや一部の人間に踊らされて山笠をタイムレースにしている場合ではない・・・・山台には早く走ることによる対策はあっても早く走るための工夫はない・・・・山笠に山台に学べ・・・・まちづくりを

同じ事をくどく書く!
 博多の外から、つまり山笠応援団のおかげで山笠の舁き手はどうにかなっている。しかし山笠運営の実態は、少数民族的な地の人々の世話によってなされており、その負担の大きさはあまり知られていない。
 最大の原因は人口の流出・空洞化である。特にファミリー世帯は極端に減り、博多部の四小学校が一つに統合されても児童数は500人ぐらいである。博多部の今の人口はピーク時4.2万人の1/3ぐらいだが、それに占めるファミリー人口の割合は児童数から考えても非常に小さい。
 増えるのは投機的なワンルームマンションと駐車場ばかりである。博多の地主もどこの誰かは分からない。このNPO博多まちづくりができたきっかけとなった言葉、「このままじゃ博多がのうなる」は、残念ながら今も生き続けている。博多に山笠さえあれば良いという考えが間違っていることが、そう遠くない内にみんな分かるだろう。
 分かったときが終えたときにならないよう、山笠に使われる知恵やエネルギー(自治力)をまちづくりに生かさないと博多の先人に申し訳が立たないだろう・・・。


 博多人は、博多部の空洞化を放置し続ける行政や政治や自治会の怠慢と自己目的化に対し、「集団山見せを止めるぞ」と言うぐらいの気概を持てるか!?

文責:稲舛積

福岡商工会議所 創立120周年記念論文・入選作
「協働の都市づくり」
■ 根本
 今から約130年前の明治初期、博多が生んだ川上音二郎は自由民権運
動に参加し、「格好ばかりがハイカラで政治の思想が欠落している」と「オッ
ペケペ」を歌って大衆に警鐘を鳴らしていました。しかしながら日本人は、明
治から今日までそのことに背を向け、護送船団方式による追いつけ追い越
せと西洋文明一辺倒で、物質的豊かさだけに目を向けてきました。
 それは、借りものの民主主義を自前のものとすることもなく、日本人自らを
鍛えることもしなかったということです。日本人はこういう社会環境で130年
間、日本という国づくりを行ってきました。今日の日本社会の混沌と活力の
無さはすべてここに起因しており、我々自身の有り様が最大の問題になっ
ているのではないでしょうか。
 音二郎の警鐘に背を向けた大きな「つけ」は、日本人のクラゲ化という利
息がついて、日本社会を覆っています。家族崩壊・学校崩壊・地域自治の
形骸化・ゆとりのなさ・少子化・自己目的化・社会目標の喪失・金太郎飴の
街並など、新しい文化やコミュニティの知恵が育たないような、日本の主体
性喪失に直面しています。日本人自らが奏でる笛の音を、変えなければい
けません。
 社会を構成する全てのセクターは今、これまでの活動の評価や社会的存
在価値など、その根本を自ら問わなければいけないと思います。例えば経
済についてもそれは「経世済民」であり、真の需要と真の供給は、人間とい
う種の、命の経営に発することを再認識すべきではないでしょうか。社会シ
ステムやセクターの根本を問いたださなければ、21世紀に展望を開くこと
はできないでしょう。
 こういう中、地方分権や規制緩和の実践は、日本の活力を取り戻し展望
を開く鍵です。それには、みんなの反省・覚悟の上に、意識改革とその共有
が不可欠です。そしてこの実践過程そのものが、自立と自己責任が前面に
出てくる、真の自由社会・自治社会と言えます。これは、人々に民主社会
のリアリティーをもたらし、根本の根本である「人」が活力を持つということに
他なりません。
 「とんでもない母親と情けない男たち」という本が出される時代です。21
世紀が活力ある日本社会・福岡となるためには、一刻も早く「つけ」を清算し
なければいけません。

■ 温故知新
 日本最古の都市である博多の歴史は、福岡市民の宝です。これからの福
岡の都市づくりにも大いに示唆を得られるのではないでしょうか。その一例
として、今から413年前の「太閤町割」と、現在行われている「博多部まち
づくり」を照らし合わせてみたいと思います。両者とも博多存亡の危機から
始まった活動で、それは内戦による町の焼失であり、もう一方は都心部空
洞化です。
 戦国時代、大きな経済力を持っていた博多は武将の争奪の地であり、度
重なる戦乱の中で町は焼け野原になっていました。そして博多再興を願う、
博多商人の神屋宗湛たちと時代の権力者である豊臣秀吉によって、太閤
町割が行われました。このときの復興策を今日的言葉に置き換えると、「土
地改革・自治改革・経済改革」となるのではないでしょうか。
 「土地改革」は、町割という名の都市計画であり、戦災復興の基本です。
それは権力者と地元町人の立場を越え、お互いがプランを出し合い調整し
「協働」で行われたのです。だからこそ短期間に、一気に博多復興ができた
のです。一方、博多部まちづくりにあっても、地元博多部と福岡市役所との
「協働」で行われています。地元の頑張りと福岡市役所による先駆的取り
組みは、太閤町割の実践の構図と同じで大いに評価できます。
 内容についても同様で、太閤町割では博多から出ていった町人たちを如
何に帰郷させるか苦労があったようで、「地子銀」や「夫役」の免除など定
住化誘導政策を実施しました。現代の協働の町づくりにおいても、地元がつ
くった「博多部まちづくり憲章(五条)」第一条は定住環境であり、福岡市が
政策決定したのは「都心居住・博多部振興プラン」です。両者とも「住」を突
破口に博多部再興を実現・展開しようとしています。博多部に住人を増やす
ためには、官民ともに、太閤町割に匹敵する意識改革(自由な発想)とチャ
レンジ精神(主体性)が求められます。
 博多部自前のまちづくり活動と福岡市役所の対応は、真の需要と真の供
給であり、真の経済の姿といえます。ただ秀吉の戦略と違うのは、博多の
二文字は福岡市の個性であるという認識と、九州アジアの交流拠点都市を
見据えていることです。
 「自治改革」は現在日本が目指している分権型社会の見本ともなるべきも
のです。秀吉が発令した「定(楽市楽座)」の第八条では博多部に武士が
住むことすら禁止して「町人自治」を育てました。その精神は、博多祇園山
笠の運営に脈々と今日まで生き続け、それは論功行賞と手一本による自
治(合意システム)であり、自己責任と自己負担でもあります。
 まちづくり憲章第四条は「自治の復権」であり、地元と市役所による信頼
と協働のまちづくりが、分権型社会の先駈けとなることが期待されます。そ
して山笠自治が、まちづくりに活かされることが望まれます。自由は自治を
生み、自治は文化やコミュニティを育みます。
 昔の博多自治の例として、町内の人が土地を売るときはいったん町内でそれを買い、その人が戻ってきたら同じ金額で売っていたという話があります。これは、土地の公共性(地域共有の財産、・資源)と地域を守る意識・連帯感の高さを表しています。正に地域生活経済共同体です。土地を担保か資産としてしか考えない現代は、大いに反省し、定期借地権などをつかった土地の共同化・資源化を諮るべきではないでしょうか。
 「経済改革」は、今日でいうところの規制緩和と同じです。「定」の第一条では、既得権益を振りかざす一部の町人たちの特権(座)を無くしました。自由な商売環境は、商人たちのやる気と地域経済の活力を生んだのです。社会環境が「人と活力」を作ることを秀吉はよく理解していたのです。
 豪商も絶対権力者もいない今日、協働の博多部まちづくりは、地域の政財界とも一体となって行える体制づくりが急がれます。まちづくり憲章の第二条で商業、第三条では交流、第5条では伝統文化となっていますが、地域住民というセクターだけではその実現は不可能です。全てのセクターが意識改革と有機的関係をもって、平成の町割ともいえる「土地改革・自治改革・経済改革」に責任を共有しなければいけません。私たちは博多の歴史と先達に試されます。

■ 提案 博多部協働のまちづくり運動の発展的展開をイメージし、その中にある普遍性・波及性をもって、これからの福岡の都市づくりを提案してみたいと思います。
(1) 九州での道州制旗振り役を担う
 日本の道州制実現に、福岡市官民一丸となって取り組むべきです。九州各県のエゴイズムを是としなければならない社会環境を改め、九州で真に経済が循環するようにしなければいけません。各県が同じような施設・機能をそろえる不経済と非効率によって、自らが疲弊してしまう社会システムを改めることは緊急な課題です。そして、州都が「博多」となることを念頭に入れておくべきです。
(2)九州アジア地域づくり機構(独立機関)を設立する・・・・・・道州制実現
 九州アジアの、地域づくりのサポートセンターであり、シンクタンクであり実践集団でもある新しいセクター。大学のように知的人材集積があり、企業のように地域づくりコンサル事業能力を持ち、行政との日常的協働関係を持ち、九州アジア各地域まちづくり現場のネットワークを持ち、ハビタットと連携し、企業メセナの器であり、道州制実施までの実質的九州的合意づくりの日常的な場であり、九州憲章を持っている「九州NPO」を設立する。
(3)福岡市役所に「協働局」を設置する・・・・・・分権型社会へ
 行政・経済団体・NPOなどで構成され、福岡市の分権と活性化と意識改革を協働で行う部署です。一律的な発想や結果公平・平等からの脱却と、健全な地域間切磋琢磨社会づくりをもって地域自治を鍛え、小さな役所づくりにも展開し、市役所を真のコミュニティホール化する。
 (i)地域自治システムの再検討と社会的位置づけの明確化などを検討する、コミュニティ協議会を設置する。(ii)官と民の、際の関係を再構築する。地域や企業やNPOなどと役所(本庁・区役所・市民センター)との関係や役割や協働を検討する。(iii)地域の主体的で自主的なまちづくり活動を支援育成するために、まちづくり条例・基金・センターなどの社会環境づくりを行う。(iv)NPO法人の経済的基盤づくりや企業との協働まちづくりに不可欠な企業寄付の無税化を国に働きかける。日常的で効率的な地域への貢献(企業メセナ)の手段であり地域経済の活性化(ビジネスチャンス)にもなる。(v)福岡市まちづくり計画(都市計画)を検討する。
 例えば、義務教育での切磋琢磨・地学連携として、先生の人事制度とコミュニティの参画を検討する。先生は一定の経験を積むと、以降は一つの区だけしか移動できないようにし、区単位での独自性と切磋琢磨を検討する。又、やる気と能力のある地域からPTAにコミュニティのCを入れて「PTCA化」し、地域人材を教育現場に受け入れ、例えば運動クラブなどはコミュニティスポーツ化する。大きくは、学校を地域コミュニティ施設化する。公設民営化を検討し、地域自治やNPO活動の充実したところから、公民館や地域文化施設やコミュニティ施設の運営委託をする。公的サービスにあっても地域やNPOへの委託・協働事業化を図り、公園や街路樹や川など自然環境、独居老人などへの高齢者福祉サービス、子育て支援、ごみリサイクルなど、タブーなき検討をする。
(4)博多まちづくりNPO法人を設立する
 博多部協働まちづくりのステップアップを図り、地・官・学・商の協働体制の器として「博多まちづくりNPO法人」を設立する。定住・商業・交流・自治・文化のまちづくり憲章すべてに渡って、まちづくり協働事業を立ち上げる。NPO福岡へも同様に行う(特に経済界の参画)。
(5)福岡まちづくり学会を設立し、この中から前記(協働局)に専従者として専門家を入れる。

■ 行動(パラレル非効率から協働スピードアップへ)
 この根本・温故知新・提案の主眼は、「人」の覚醒と行動への喚起であり、活力創造へ「行うことができる体制を如何につくるか」と「どういうテーマを突破口にするか」にあります。
稲舛積







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