■ まちづくりの原点 ■
1995.6.24
九州大学教授 本間義人

 今日は、私が考えている「まちづくりの原点について」はなしてみたいと思う。次
の6点が今日の話のポイントである。
 1 欧米のまちづくり
 2 日本の都市政策
 3 国家に替わる政策主体(自治体)の登場
 4 まちづくり総合条例、あるいはまちづくり憲章
 5 まちづくりの目標と実現の条件
 6 定住を勧める具体策

○欧米のまちづくり
 さて、この会場におられる人の中にはヨーロッパや北アメリカへ旅行にいった経
験のある方がずいぶんいると思う。そのとき、何に一番大きなカルチャーショックを
受けたかを改めて思い出していただきたい。海外旅行に行っておられない方々
も、いろんなテレビの映像やあるいは雑誌のグラビアなどで、海外の事情には詳
しいと思うので、もう一度その体験を思い出していただきたい。おそらく、北アメリ
カやヨーロッパに行かれた方々が、一番感動したのは、あるいはカルチャーショッ
クを受けたのは、先方の町並みにではないかと思う。車や飛行機で行く先々の町
並みが、非常に個性ある独特の主張をしている。その地域の歴史、伝統、風土に
沿って、きわめて水準の高い町並みが形成されている。住宅を含む個々の建築
物も非常に水準が高く、日本の町並みと比べると全体として非常に水準が高い。
豊かである。そういうことに気づかれたと思う。名所旧跡もさることながら、そういう
先方の行く先々で違う顔を見せている水準の高い町並みに感動されたに違いな
い。
 そして日本に帰ってきて、成田空港、福岡空港に降り、バスなり電車なりで帰途
に着くとき、改めて日本の町並みを見て愕然とせざるを得ない。なんと北アメリカ
やヨーロッパの町並みと違うことか。彼らとの差に愕然とせざるを得ない。そういう
北アメリカやヨーロッパと違うきわめて水準の低い町並みが日本の都市を形成し
ている。これは、日本と北アメリカやヨーロッパの都市政策の歴史を振り返ってみ
ると、起こるべくしてできた格差であるといえる。
 北アメリカはともかくヨーロッパの国々は、戦前、戦後を通じて、特に戦後におい
て、社会民主党政権なり労働党政権ができて以来、都市政策あるいは都市にお
ける住宅政策を国家的計画主題として展開してきた経緯がある。そこが日本の場
合と基本的に異なる。 →

























 イギリスの場合、1850年代より産業革命後のロンドン、リバプールといった都市
をどう改善していくかというのは、国家にとって最大の課題として取り上げられて
いた。それで、1850年代に公衆衛生法を制定して、下水道の整備に着手する。あ
るいは、公共住宅法を作って公共住宅の供給に力を入れるとかを今から140年前
にはじめている。それで1901年には、ニュータウンを世界で始めてロンドン郊外の
レッチワースに作り、以降勤労者の住居、その住居を取り巻く住環境、その住環
境の組み合わせからなる都市というものを秩序立ててきた経緯がる。戦後は、特
に第2次世界大戦に参加した兵士が帰国してくる。帰還兵士のための公共住宅
の大量建設に力を入れてきた。サッチャー政権によって、公共住宅の民間への払
い下げという乱暴な政策が行われたにもかかわらず、全国的には、なお総住宅数
の30%以上は公共住宅である。マンチェスターのような工業都市になると60%ぐ
らいが公共住宅で閉められている。そういう政策を取ってきて町並みを作ってき
た。スウェーデンについても、戦前の都市計画の教科書では、ストックホルムの市
街地などはヨーロッパのスラムの代表と位置づけられていた。戦後、社会民主党
政権が誕生するに及んで、公共用地を大量に自治体が取得する政策を進めるこ
とによって、整然とした町並みを作ることに成功した。今ではスウェーデンのストッ
クホルムは、旧市街地新市街地を含めて、ヨーロッパでもまれに見る美しい都市
であるといわれている。それも50年間、国家的計画主題として都市と住宅にある
いは土地政策に取り組んできた結果である。
 同じ敗戦国であるドイツの場合は、アデナウァーがケルンの瓦礫の上に立って、
ドイツのもてる全ての力を都市へ住宅へと叫んだということである。そこで、日本と
同様の空襲で瓦礫と化した都市の復元復興に取り組むと同時に、社会住宅とい
う制度を取り入れて、国家資金を住宅に導入して賃貸住宅あるいは分譲住宅の
供給に力を入れていく。
 このようにヨーロッパの国々はいずれも、住宅や都市についてこれを国家的計
画主題として取り組んだ経緯がる。

○日本の都市政策
 ひるがえって、日本の都市政策、住宅政策を見ると、それが国家的計画主題と
して展開された事があったのかどうか振り返ってみると、残念ながらヨーロッパの
事例のようではない。日本が国家的計画主題として都市、住宅に取り組んできた
経緯はないのである。
 明治維新、首都が京都から江戸・東京へ移ってきた。江戸・東京をどういうふう
に近代的な都市にするかということで、いろんな人たちがヨーロッパへ視察に訪れ
た。ちょうどナポレオン3世の命令でオスマンが行ったパリの大改造に感激して帰
ってくる。それで日本の都市、なかんずく東京は、パリあるいはロンドン並の都市
に作り変えなければならないと宣言するわけである。 ↓
全部読みなさい!
それで、岩倉具視は東京改造に着手する。井上馨はおりから欧米各国との不平
等条約の解消に臨んでいたが、井上馨も「不平等条約を解消するには首都東京
がロンドンパリ並にならなければ大きなことは言えない」というわけで独自の東京
改造に着手する。外務大臣が東京改造に着手するというのはまあ大変異例のこ
とが、明治の10年代に起こった。
 それで、彼らが作ったのは、鹿鳴館であり、霞ヶ関の官庁街であり、銀座の煉
瓦街である。これらは全てロンドン・パリをまねて作った。しかし、首都東京という
のは、霞ヶ関、鹿鳴館のある築地居留地、あるいは銀座だけではない。当時、武
士、町人が住んでいた区域は、江戸時代そのままの姿であった。入り組んだ細い
街路に沿って、長屋が立ち並んでいる。一方では、広大な大名の上屋敷、下屋敷
が点在する。そういうアンバランスな都市であった。
 それで、明治20年代になると、当時の内務大臣である山県有朋は、とにかくこ
の東京を改造して近代的にしない限り、東京を中心とした産業も興らないし、ある
いは東京から地方へ延ばす連絡、交通手段も整えられないということで、東京改
造を時の東京府知事に命じる。当時東京府知事であった松田時彦は、東京の都
心部に限って都市改造をするという東京改造計画を出す。しかし、途中でいろんな
事情により失脚し、その後芳川顕正が東京府知事になり、当時の東京の街の広
がりから見て、山手線の範囲ぐらいは、都市改造の対象にしたいということで、広
域的な都市改造計画を作る。これを東京市区改正事業という。市区改正というの
は今日で言う都市計画という言葉である。
 その案を内務大臣である山県有朋に提出するにあたって、芳川は上申書を出し
た。その上申書の中で、有名な本末論が出てくる。本末論というのはどういうこと
から発しているかというと、道路、橋梁、河川は本なり、家屋下水は末なりと。つ
まり、都市改造を行うに当って第一にしなければならないのは、道路、橋梁、河川
を整備することである。家屋、下水はプライオリティから行って、その次に位置する
ものであるということを述べた。山形も芳川も当時ヨーロッパに行っている。例え
ば、オスマンが造った大下水道に感激している。ところが、日本に帰ってきて、東
京市区改正事業に携わるようになると、パリで感激した下水道のことは忘れてし
まって、道路、橋梁、河川になってしまった。なぜ、道路、橋梁、河川なのか。これ
は、やはり当時の産業の交通、流通、運搬の手段として、不可欠だったからであ
る。人が住む家屋などは、産業を発展させる上でそれほど重要でないことから、
二の次におかれた。そういうことで、東京市区改正事業は、1888年から10年余り
に渡って東京で行われた。費用の80%近くが道路に投じられた。確かに、 →
























道路は、いわゆる1等道路から3等道路まで整備されたが、住宅、下水、公園ま
では手が廻らず終わってしまった経緯がある。
 その本末論で言う道路、橋梁、河川は本なり、家屋下水は末なりということから
分かるように、産業を発展させるためには、いかに都市を整備したらよいのかが、
明治、大正の都市政策の基本であった。この考え方は、大正9年に東京市区改
正事業で行った都市計画を全国の都市に及ぼそうと意図して作られた都市計画
法に基づく都市改造事業にも引き継がれ、家屋、下水などの我々の生活の基盤
の整備は、プライオリティから言って疎かにされていた。つまり、富国強兵と殖産
振興を進めるための手段として、都市政策は位置づけられてきた。戦中の都市政
策も、防空政策、つまり空襲から如何に被害を少なくするかの手段として位置づ
けられていた。
 戦後も1968年に大正時代に作られた都市計画法が全面改正され新しい都市計
画法ができるが、やはり基本的な流れはあまり変わっていない。つまり、戦後は
経済計画達成の手段として、都市政策が使われてきた、1960年に池田内閣が所
得倍増計画をたてる。では一体、所得を倍増GNPを達成するには、どの程度の労
働力を雇用する必要があるのか、その労働力を雇用するにはどの程度、都市に
おける物的諮問を整備する必要があるのか、ということで物的整備計画中心の都
市政策が進められる。それは、都市計画法と並ぶ地域政策の上位法である国土
総合開発にも反映される。その法律に基づいて展開される全国総合開発計画に
典型的にその思想が現れている。全国総合開発計画がまずやろうとしたのは、
拠点開発ということで全国に3大工業地帯に代わる工業都市をばらまこうというこ
とで、新産業都市、工業等特別整備地域を全国に配置し、全国各地で港湾であ
るとか産業道路などが作られる。あくまで産業優先の地域政策である。
 その結果、大都市におけるわが国の都市基盤施設は、欧米と比べて格差が大
きくなるばかりになる。都市基盤整備の中で一番分かりやすい指数である人口あ
たりの下水道普及率は、イギリスでは1980年の段階ですでに97%である。広大
な国土を持つアメリカでさえ83%に達している。これに対して日本は、全国平均で
23%にとどまっている。東京や大阪は100%普及したが、中小都市では、いまだ
下水道が整備されていないところがある。あるいは、一人当たりの都市公園面積
も日本は東京を例にすると一人当たり2.0uである。それに対して、ロンドン、ワシ
ントンでは40〜50u、ボンでは90uもある。まあ、日本の20〜30倍ぐらいの都市
公園面積がある。北アメリカやヨーロッパに行って町並みが違う、町並みを作り出
している空間そのものが違うというのは当然のことである。 ↓

 決定的なのは、欧米のまちを歩いてみて、感動するのはどこに行っても、老若
男女が仲良く暮らしているということである。日本の場合は老若男女いろんな人
がいるという、ノーマライゼイションを実現している地域が年々少なくなっているの
は、私にとっては衝撃的なことである。例えば、東京の千代田区では、昼間人口
が100万人いる。つまり、区内の空間という空間はほとんど事務所、商業施設に
よって占有されている。郊外からそこへ通う人たちが、100万人いる。これが夜に
なると、4万人を切ってしまっている。つまりこれまで生活空間であった住宅が、土
地の買占め、投機目的の買占め、相続税が払えないということでなくなり、生活
空間が業務空間へ次々と転換していった結果、人がいなくなってしまった。まれ
に商店街で自営業を行っている人がいるが、皆さん高齢化している。若い世代、
子供がいない。
 もうこれは都市とはいえない。そういう高齢者ばかりが残っているから、彼らを相
手にしていた商店も出て行ってしまう。銭湯もなくなる。千代田区に残っている人
たちの生活基盤自体が揺らいできている。この人たちは地下鉄に10分も乗って銭
湯に入りに良き、食事の買物に行っている。しかも高齢者がほとんどなので、コミ
ュニティが揺らぎつつある。一人ひとりが孤立して住空間に閉じこもって、細々と
商売を続けている状況にある。これはやはり、戦後も都市政策が経済計画、経済
成長達成の手段としてしか扱われてこなかった最大のゆがみであると思う。何よ
りも資本による空間占有が、年々進むことによって、地価が上がる。地価が上が
るということは空間費用が高くなる。まだ、都心部に住宅がある人は良いけども、
あらたにそこに住もうにも住めない。つまり、賃貸住宅を借りるにしても家賃が高
い。分譲住宅を取得しようにも取得価格が高いということで、人がもはや住めない
状況になっている。
 これは大阪でも神戸でも同様である。今回の神戸の地震では、そうしたお年寄
りたちが一番大きな被害を受けた。災害は弱者を襲うといわれているが、まさに
都心部に戦前からの木造住宅に住んでいる老人がみんな被害にあった。おそら
く、東京でも大阪でも、神戸並みの直下型の地震があったら、都心部のそういう木
造住宅密集地帯などに住む高齢者の方々は大きな被害にあうと思う。
 それが戦前戦後を通じて進められてきた都市政策の結果であるとするならば、
私達はずいぶん不幸な国家において国家を支えてきていると言わざるを得ない。
つまり、都市で働き、都市で税金を支払ってきたわけだが、それに対する見返り
が何もない。その代わり地方には、税金で支払われた以上のものが見返りとな
り、いろんな公共事業で投下されてきたという経緯がある。 →

























○国家に替わる政策主体(自治体)の登場
 日本の地域政策・都市政策は、そういう歪んだ形のまま今日まで展開されてき
て、それで1980年代の後半になってバブル経済に突入していく。バブル経済の
結果、バブルの始まる前とバブルが沈静化した後では、地価は3倍ぐらい違うも
のになった。地価が3倍になると言うことはそれだけ空間費用が高くなるということ
で、ますます高い空間費用に耐えうる企業しか、都市の中で、特に都心部では、
空間を占有することができなくなる。
 こういう状況で大都市の中でも都心部が衰退してきている。これに対して地域
の自治体が危機感を感じるのは当然のことである。地域住民の福祉を担保する
のが地域自治体の最大の仕事であるから、地域住民の福祉が損なわれている
のは危機的状況である。それで、地域自治体で、国家が都市政策という分野で
力を発揮できないとしたら、自治体自ら国家に代わって政策を実施しないといけな
いのではないかという意見が出てくるのは当然である。住宅だけに限っても、地
価が3倍にもなった結果、公営住宅の供給がストップしてしまった。住宅都市整備
公団の住宅も同様である。住宅金融公庫の融資でもってしても、持ち家の取得は
夢のまた夢になってしまった。公営住宅、住宅都市整備公団、住宅金融公庫は、
戦後の日本が住宅政策の柱にすえてきた施策である。それが機能しなくなった
のだから大変なことである。あるいは、地価が上昇した結果、道路を造るにして
も、用地買収のための費用がかさみ、公園を造るにしても同様である。地価が3
倍になれば同じ公共事業費で1/3しか整備できないことになるので、そういう都市
政策も破綻してきている。つまり、国が戦後とってきた住宅政策も都市政策も土
地政策がまったく機能しなかったために起こったバブル経済によって破綻してしま
った。国家における公共政策では、都市における生活基盤を形成することも都市
基盤を整備することもほとんでできなくなったわけであるから、自治体としては危
機感を持たざるを得ない。
 そこで、各地の自治体でまちづくりとか住宅にかかわる要綱・条例を作るところ
が増えてきた。80年代後半の大きなトレンドである。例えば三鷹市では福祉まち
づくり要綱というのを作り、要綱だけではデベロッパーなどを法的に説得する根拠
に乏しいということで、新宿区や世田谷区では住宅条例というものを作る。そうい
う自治体が増え始めた。
 条例について大別すると、一つは地価の高騰により、国の土地政策や住宅政
策が機能しなくなり、地域における有効な土地利用や住宅確保を進めるには、独
自の規範を設けざるを得なくなった、ということから制定された条例。もう一つは↓

リゾートに代表される乱開発に対抗して、地域の歴史、自然環境が破壊されるの
を未然に防ぐために制定された条例がある。
 これらの条例をあえて意味づけると、前者の条例は、多分に先制的なものであ
り、後者は防衛的な意味合いが濃いい。しかし、ともに共通する重要な意義がこ
められているのは、見逃すことができない。つまり既存の法制度が私有財産権の
尊重を前提とした、中でも土地所有権を前提とした、建築の自由であるとか、開発
の自由を認めているのに対して、それらの条例は、こうした自由を可能な規範内
で理性的に制限しようとしていることである。
 条例の中で、最も早い時期に作られた世田谷区のまちづくり条例では、まちづく
り推進地域において、地区住民によるまちづくり案の作成、地区の不燃化、共同
化を進めるために専門家を派遣するといった多分に誘導的なもので、内容的には
建築の自由、開発の自由に踏み込んだものではなかった。80年代後半地価高騰
以降の条例の内容は、大きく変わって、より規制的なものに変貌する。地価高騰
とかリゾート開発がそれだけ大きな影響を地域にもたらしたがゆえに、自治体側も
その影響を最小限に食い止める、その影響から逃れるのに、自治体の持つ権限
をフルに行使することを考えたことに他ならない。
 それ以前、自治体は乱開発に対して、要綱で対処していた。それが80年代後
半以降、要綱から条例に変わってきた。条例のほうがより建築の自由、開発の自
由を規制できる。そもそも日本の都市政策の中で要綱は非常に大きな意義を持っ
ていた。要綱や1960年代後半より各地で乱開発を食い止める有効な手法として
一般化した経緯がある。そのはしりになったのが、1965年に制定された川崎市の
団地造成事業指導基準で、続いて川西市で宅地開発事業指導要綱が作られる。
1968年に都市計画法が全面改正され、新しい都市計画法が施行されたものの、
それが中央主導型の内容であり、多種多様なスケール、内容を持つ地域の環境
整備に対応しきれないでいた。要綱やその穴を埋めるために自治体が生み出し
た環境整備の手法であった。具体的には、宅地開発に伴って整備すべき公共公
益施設、取水排水施設などについて、都市計画法で定めた水準に上乗せして、
地域独自の基準を定め、それをデベロッパーへのオブリケーションとして果たす。
中高層建築物の開発について住民同意を求めるなどの内容で、デベロッパーに
よる乱開発を防いできた。
 これまで都市というのは、都市計画法や建築基準法に代表される国家の法制
度によって誘導かつ規制されてきたのであった。若干は、自治体が指導して住民
が締結する建築協定という例もあったが。要綱が各地に作られ始めたのは、国家
による都市の法制度が機能しなくなったために、それを埋めるべくして生まれた自
治体による法制度と言ってよい。国家による法制度と自治体による法制度を図式
化すると、国家による法制度は開発、あるいは、中央集権的というキーワード →

























でまとめられる。自治体による要綱は、環境とか、地方分権とか言う視点から図
式化できるといえよう。
 それが、80年代後半になると、要綱より一歩進んだ条例になってくる。要綱につ
いては、安上がりなデベロッパーのまちづくりに対してペナルティを課すという自
治体独自のまちづくりを進めるのに効果があり、宅地乱開発による基本的な住環
境の破壊を食い止め、一定の水準向上を図り、地域の特色や個性にあった住環
境整備を総合的に図ったが、それだけでは足りないため、デベロッパーに対して、
もっと規制力のある条例を作ってまちづくりの規範にしようという動きが起こったの
である。要綱が各地で生まれたというのは大きな出来事だったが、さらに、それに
変わる条例を整備する自治体が出始めたというのも大きな出来事だったと思う。
 要綱自体、デベロッパーの開発を阻害するものだとして、政府と業者によって要
綱つぶしというものが散々行われてきた。要綱は民活を妨げる元凶になっている
というわけで、83年には、建設省、自治省が繰り返しこの要綱の規制緩和通達を
自治体に行った。規制緩和しなければ、ペナルティを課すということまで行った。
日本全国には3,300弱の自治体があるが、そのうちの1,009の自治体で要綱が作
られた。全国の自治体の1/3の自治体が要綱を作ったことになる。建設省、自治
省の要綱規制緩和通達に従ったのは、1/3の自治体のうち5%にも満たなかっ
た。ちょうどこの頃、私は、臨時行政改革推進審議会で委員をやっていた。そこ
で、バブルが引き起こした土地対策の検討を行った。そこで、総務庁から、建設
省、自治省の通達にもかかわらず、各自治体が要綱に固執しているので開発の
大きな妨げになっているという報告があったのを記憶している。私はその際、総務
庁に対して開発の歯止めがかかるというのは、地価を抑制するのに結構なことで
はないか、と申し上げた。つまり、地価が高くなったのは、基本的には、需給のア
ンバランスから生じたと思う。開発を進めるということは、まず、土地を買い占める
ということから始まる。だから、それに歯止めがかかるというのは結構なことであ
る。

○まちづくり総合条例、あるいはまちづくり憲章
 いずれにしても、要綱というのは、このような経緯を経て今日に来ているのであ
るが、それでも足りないということで、条例を作る自治体が出始めたわけである。
都市自治体の多くは地価高騰という嵐に巻き込まれ、地域のまちづくりを進める
上において、これまでにない困難に直面したということに他ならないし、現行の法
制度の中にはその事態に機能しえなくなったものが非常に多く、加えて要綱自体
限界があるとしたらどうしたらいいかということで多くの自治体が悩んだに違いな
い。その課程で一部の自治体が法と要綱の中間にあり、要綱より強制力のある
条例によってまちづくりを管理することを考えたとしても決して不思議ではない。↓
頑張って読んで!、頑張って自分達の町でも!
 それは、民活によって進められて、地価高騰を招き、町から住民を追い出した経
済的開発を公的主体により、そこに住む人々中心の生活的開発により転換させよ
うという発想から生まれたものである。国家による法制度は要綱の出現によって
意味を変えたわけであるが、さらにこの、自治体条例の出現によってまたも、意味
を変えることになった。
 私が、その自治体条例の中で取り上げたいのは静岡県掛川市の土地条例であ
る。先ほど言った防衛的な条例としては、湯布院町や真鶴町とかの景観保護を主
とする条例があるが、先制的な条例の例としては、静岡県の掛川市の土地条例
を取り上げられる。掛川市の条例は正式名称を掛川市生涯学習土地条例という
が、これは掛川市が生涯学習都市宣言をしていることから条例の名称にも生涯学
習という名前がついたわけである。
 条例を制定することになったのは、一般的な理由と掛川市だけの理由の2つの
理由がある。一般的な理由は東京のバブル経済と狂乱地価の波が押し寄せてき
て、掛川の町は静岡と浜松の谷間に位置し、それぞれ50万都市の静岡・浜松の
にじみ出し、東京から来る狂乱地価の連鎖反応より、土地利用の混乱、土地の
投機的取引があり、困ることが多かった。それが、地価の急騰、スプロールなどに
つながっていった。掛川サイドの問題としては、新幹線の掛川駅ができ、東名のイ
ンターチェンジ、さらに工業団地が作られたことによって掛川市の経済力、都市集
積が高まった。東京・大阪サイドから見ると、このローカル市場を開発することは、
大きなメリットがあるということで、東京・大阪の資本が殺到してきた。さらに、土
地について農水省の農振法や建設省の都市計画法での規制や計画だけでは、
農業用地は守れないし地価も抑制できないことがはっきりしてきた。それは、当然
である。全国画一的な法制度では、地域独自の問題を解決することは難しい。
 そういうことで、今後の地価を抑制しようという、先制的側面と土地利用の混乱
を防ごうという防衛的側面を合わせもつまちづくりのルールとして、土地条例を作
った。この土地条例の特色は、第一条に意義として記してあるように、住民参加
で質の良いまちづくりを進めることを目的としている。つまり、「土地の公共性に基
づく土地の適正利用に関する生涯学習ならびに、市民主体の土地政策、及び、実
施における積極的な市民参加について定め、よって快適で良質なまちづくりに資
することを目的としている」ということである。
 快適で良質なまちづくりを進めることが目的だというわけである。快適で良質な
まちづくりには、乱開発から地域を保全するだけではなく、むしろ、水準の高い地
域空間を作り上げていこうという意味があると読み込んでも良い。

























さらに、土地条例の特色は、土地基本法でも土地は極めて貴重な公共的な財産
であり、公共の福祉優先に用いられねばならないと書いてあるが、ここではもっと
踏み込んでいる。第一条には、「土地は市民のための限られた生態系にもかか
わる貴重な資源であった、地域社会を存立させている共通の基礎である」と書い
てある。さらに、「その処分や利用を他の財産と同様に自由な市場メカニズムにゆ
だねるのは、不適当であり、処分利用などについては社会的、公共的制約に従
わなければならない」と書いてある。つまり、土地所有権の制限を前面に打ち出し
ているのが大きな特徴となっている。先ほど私は日本の土地政策は建築の自
由、開発の自由を進めるばかりできたといったが、ここではそれに歯止めをかけ、
土地所有権の制約を前面に打ち出すことで、建築の自由、開発の自由にストップ
をかけようとしているわけであるので非常に大きな意味がある。
 もっとも、この第一条をめぐっては、いろいろな議論があったようである。私が市
長に伺ったところでは、当初、第一条では「土地というのは地域共有の財産であ
る。だから個人がみだらに処分や利用を他の財産と同様に行ってはならない」と
書いてあったが、条例案について各地区で開かれた説明会に行くと、一様に地域
の人たちから「地域共有の財産というのは共産主義的な考えではないか。」と市
町は問われたそうである。それで、表現を和らげ「土地は市民のための限られた
生態系にもかかわる貴重な資源であって、地域社会を存立させている共通の基
礎である」に読み変えたということである。
 そして、第二条以下、土地に関する基本原則を明らかにしており、その基本原
則というのは、つまり土地というのは、地域社会共通の必要性とか、地域の自然
的、社会的、経済的あるいは文化的環境を考慮して適性に利用されなければな
らないという原則を確立しよう、土地の投機的取引の禁止などの原則を確立しよう
とか、開発利益を社会的に還元する原則を確立しようということが書いてある。
 続いて、第六条以下では、具体的土地利用計画策定に関する施策のプロセス
を明らかにされており、ここで、住民参加のプロセスが明示されている。つまり、
市長が適正な土地利用を図る必要と認めたときには、その区域を特別計画策定
促進区域として指定し、その指定を受けた区域は、地域住民が第一条に記され
た目的に即して、土地利用の方法を含めたまちづくり計画案を策定する。住民が
作ったまちづくり計画案が市の総合的な計画に適合していると認められたとき、
市長は地域住民と地権者の8/10以上の同意を持って結ばれるということである。
いずれにしても、地域住民と地権者が、まちづくり計画案を作り、まちづくり計画協
定を作り、それに基づいて市長は、自ら指定した特別協定計画促進区域の ↓

土地利用の土地取引、建築物の新築、開発行為に対する規制を行おうとするも
のである。国の作った土地基本法が、極めて抽象的な理念であるとすると、この
掛川の土地条例は実定法に近い自治体法といえると思う。
 この条例の意義を、改めていくつか挙げると、一つは、地域の土地利用計画を
自治体が主体となって策定することを全国の自治体ではじめて宣言した。土地利
用こそまちづくりの基礎であり、この時点ではまだ法により市町村は、マスタープ
ランの策定は認められていなかった。土地基本法において第十一条で国及び地
方公共団体は必要な土地利用に関する計画を策定するものとするとあるが、これ
は自治体が主体的に土地利用計画を策定することを保障したものではなく、あく
まで国家の主導の下に策定するのを述べたに過ぎない。その後93年の都市計画
法の改定で、市町村自体が、市町村マスタープランを作ることができるようになっ
たが、掛川市の条例ができた時点では、まだ法により市町村自治体が土地利用
計画をまとめることはできなかった。ここに、かつて要綱が初めて制定されたとき
に匹敵するか、それ以上の意義を有していると評価したいところがある。自治体
行政にとっては画期的な出来事であると言える。
 二つ目の意義はわが国の土地政策が、長い間タブー視してきた、あるいは意識
的に避けてきた、土地所有権について大きく踏み込んでいることにある。土地政
策というのは土地所有権に対して何らかの形で公的規制を行うところに意義があ
り、これまでの土地政策はその公的規制を憲法に触れるのを恐れて、あいまいな
形でしか行ってこなかった経緯がある。実は、憲法も第29条3項で私有財産は、
正当な保障の元にこれを公共の福祉のために用いることができるとしている。
1966年の経済企画庁物価問題懇談会の報告でも、財産権は、憲法で保障され
ているが、土地というのは個人の労力と資本とで自由な競争を得て獲得したもの
でない、蓄積した財産でない、ゆえに公共の福祉に適合するように制限すること
ができるとしていたにもかかわらず、政府は有効な施策を講じてこなかった。それ
で、80年代後半のバブルを含めて、戦後合計3回にわたる地価の高騰を通じて、
それが元でまちづくりが混乱してきたわけだが、そのタブーたる土地所有権に掛
川市が踏み込んだということは、いわば国の土地法制度に風穴を開けたといって
良いと思う。これが、第二番目の意義ではないかと思う。
 三つ目に指摘できるのは、この条例が自治体政策への市民参加が前提となっ
ているということである。住宅政策への市民参加に関しても、東京の新宿や世田
谷区が条例で審議会への参加という形で保障しているが、掛川市の条例はより
具体的な形で市民参加から住民合意のプロセスを体系化しているのが大きな特
徴である。例えば、土地利用に当たって特別計画協定区域を設定していく際の手
続は、従来の都市計画が公聴会、縦覧といった形骸化した住民参加しか認めて
いなかったのに対して、画期的な試みであると思う。 →

























 と言って私は、世田谷や新宿が条例で市議会への参加という形で住民参加を
保障しているのを否定しているわけではない。私は、ここに来る前に世田谷区で、
条例に基づく住宅委員会の委員をやってきた。この住宅委員会は区議会代表、
区職員代表、学識経験者、それから区民代表で構成されている。区民代表で選
ばれた4人の内3人までが女性であり、しかも3人の女性は世田谷区内のまちづく
りリーダーである。そういう経歴の持ち主である。住宅委員会の会議で、一番発
言したのはこの3人の女性である。それは当然である。地域のことは地域住民が
一番良く知っている。しかも、定時性市民でない全日制市民である女性が詳しい
のは当然のことである。地域の住宅需給についても、彼女達が一番良く知ってお
り、区がどの地域にどういう家賃補助をした住宅を供給したらよいかということもす
ぐ分かる。そういうサゼッションに基づいて、実際に世田谷区における家賃補助住
宅は供給されている。これはこれで評価できる。単なるる会議への参加である
が、会議へ参加することによって、その人たちの意見が具体的な施策に反映され
ることは非常に重要なことである。
 だけれども、より掛川市の住民参加、住民合意のプロセスの体系化は評価した
いということである。どうしてこういう条例を作ったのか、一度市長に聞いた事があ
るが、そのときの市長の言葉が印象的であった。それは、いい町をつくるには、土
地所有者、地域、市それぞれが、そのための方針と役割と責任を持たなければ
ならないということをはっきりさせたいということである。これは非常に示唆的な言
葉でないか。即ち、いい町をつくるには、市だけでも、地域だけでも、土地所有者
だけでも無理で、この3者がそれぞれの方針と役割と責任を持って進めることでで
きるということを市長は言っている。そういう意味で私は、自治体が80年代後半に
なって国家の法制度に替わりうる自治体独自の自治体法とでも言うべき、法制を
作った例として掛川の土地条例説明したのである。このまちづくり学校でこれまで
話のあった、湯布院、真鶴の条例も、それぞれ特色があり、それぞれ高い評価が
与えられるのは言うまでもない。

○まちづくりの目標と実現の条件
 私は欧米の町並みに比べて水準の低い、都市基盤施設が粗末な日本の都市
町並みを作り変えるには掛川市長がいうような意識を、一人ひとりの市民のみな
らず政治家、公務員などが持って初めてその道筋が明らかになると思う。都市を
始め、地域空間というのは、その時代の社会における政治構造、政治意識、技術
の集積、産業構造、あるいは市民の文化意識ではないかと考えている。
 地域空間を市民生活にとって、豊かな水準にするにあたたって、そこには変わっ
てはならないものがあるはずである。いろんな意識構造は変わっていくにしても、
変わってはならないものがあるはずである。それを私は、地域空間としての ↓

あるべき目標としたい。この目標だけは継続的に追及されねばならないものであ
る。それを私はまちづくりの目標としたい。
 当然それは、地域稲舛積よって異なり、現在の法制度やさまざまな全国計画が
目指している全国一律、画一的なものではなく、ゼネコンなどの土木、建設事業
によってのみ達成されるものではない。それは地域の事業や特殊性を踏まえて
地域が主体的に選択したものでなければならない。例えば、駅前広場をつくるに
しても、これまでのような再開発事業によって、全国どこの駅前においても見られ
るような広場をつくることではないということである。露天が集まる駅前広場があっ
てもいいし、人々の憩いと語らいの場になるカフェのような広場があってよい。
 しかし、どの地域にも共通するまちづくりの目標があるはずなのは言うまでもな
い。その多くは、これまでのまちづくりが都市においても農村においても時に忘れ
がちだったものであるが、過去のまちづくりを反省した上で、真に地域の人たちが
そこで豊かな生活を過ごしうる空間を作り上げるには不可欠の目標であり、それ
は言ってみると空間利用を産業優先から生活優先へ、経済的価値の重視から環
境的価値の重視へ、行行政当局を含めて市民一人ひとりのまちづくりの政策価
値観を転換した上で揚げられるべき目標といえる。
 この豊かさという言葉を安易に使ったが、そんれは数量的に捉えることができる
ものと、目に見えにくい物があるのは当然である。数量的に目に見えるものは、
下水道普及率とか都市公園面積とかいった社会資本がある。この面でわが国の
水準が欧米の先進国と比較して、甚だしく立ち遅れているのは申し上げたとおり
である。こういった数量的に目に見える豊かさを充実させることは当然重要である
が、より重要なのは、数量的には見えにくい豊かさであることをここで強調した
い。それは何かというと、例えば安心して暮らせることであるとか、日差しが明る
いとか、空気が美味しいとかいったようなことであるかもしれない。これまで私達
はともすればそうした豊かさには無頓着であったきらいがあった。そういう数量的
に見えにくいものの中にこそ、真の豊かさがあるのではないかという観点を加え
て、私達はまちづくりの目標を揚げなければならないと考える。
 では、一帯同意馬の目標を揚げるべきなのか、まず第一は地域の全てで人権
が保障されている町をつくる。即ち人権が保障されている町である。地域空間とい
うのは多種多様な人々の営みによって成立している。それらの人々の生活、暮ら
しの基盤を支えるのは人権であることは言うまでもないことで、これこそ数量的に
は目に見えにくいものであるが、この人権が保障されていない地域に真の豊かさ
はない。具体的には、福祉の面で高齢者やハンディキャップを持った人々が安心
して暮らせるシステムが地域に存在しているかどうか。社会保障費用の配分は国
に任されているが、それらの人々が健常者とともに当たり前に暮らしていけるノー
マライゼーションが存在しているかどうか。医療の面で健康と生命の安全が →

























保障されているかどうか。住まいの観点からは、人々が適切な規模の住まいを適
切な場所で確保し得るような仕組みが保証されているかどうか、これをアフォーダ
ブルハウジングと言うが、バブルのときの地価高騰は大都市の中心部から、この
アフォーダブルハウジングを追い払ってしまい、人々が住めなくなってしまった。資
本が空間を占有してしまった結果、人々の住まいの亜フォーだび利ティは底で断
ち切られてしまった。底に都心空洞化の大きな原因がある。宗でないアフォーダ
ブルハウジングを保障しうる仕組みがあるかどうか、そういう住宅政策が確立され
ているかどうか、そこにはもちろん高齢者や低所得者が地域にいつまでも住み続
けられることが含まれている。国籍や性別年齢などを問わず差別が存在してはな
らないのは、言うまでもない。天災、人災を含めて災害によって生命に危険が及
びかねない地域であっては絶対にならない。その観点から言うと、神戸のインナ
ーシティでは結局のところ人権が保障されてる町をつくることを怠ってきたがゆえ
に、弱者が多くの被害を受けた。神戸人権が保障されていなかった町と言ってよ
い。
 第二に言いたいのは、地域産業を主体とした共同体を作ることである。特に、農
村漁村においては、第1次産業で生活しえるような工夫がなされなければならな
い。都市でも地域の産業がもっとも大切である。神戸で言えばケミカルシューズで
あろうし、それに関連した産業であろう。その次に地域の基幹産業であろう。神戸
で言えば神戸製鋼などである。地域に立地した企業にはそこで多くの人々が働
いている。雇用の確保という点からも重要な産業だといえる。ところが神戸の復興
計画で阪神淡路復興委員会の最初の提言は、神戸港の復興であった。復興委
員会のメンバーにとっては、国際コンテナ港としての神戸港の機能を回復させるこ
とが第一であり、それが機能回復されなければ、ますます釜山や高雄や香港と
神戸との差が出て取り残されてしまうと困るというのが理由である。そういう、ま
ず国際コンテナ港だというのを、地域から遊離したとまでは言わないが、地域住
民の生活とは第一義的に関係のないところから整備するのではなく、地域と密着
した産業から地域づくりが行わなければならないと言いたい。
 第三に揚げるべき目標は、自然との共生である。これまで自然というのは、大
都市、農村漁村を問わず開発のための消費財であるかのごとく開発にもともない
次々と破壊されてきた。その結果大都市では緑や水が失われ人々の生活を悪化
させてきた。農村漁村では第一次産業の基盤が失われてきた。こういう状況であ
っては、これからの都市は人口砂漠化し、コンクリートと鉄、硝子で固められたも
のになってしまうのでないかと懸念される。もともとわが国は四面海で囲まれてい
るからとか、国土の70%が森林であるとか一見豊かな自然に恵まれているようで
あるが、この自然は極めて脆弱なもので、大都市では破滅的な状況にある。環境
というものを大事な資産として将来に受け継ぐべきではないのかと思う。 ↓

 第四は横並びでない個性的な町ということである。欧米では通り過ぎる町という
町の表情が全て異なり、それは地域地域の歴史、風土、伝統に根ざしている。わ
が国では駅前広場や銀座通りに象徴されるように、どこに行っても同じような町並
みしか見ることができない。地域の主張もなければ、人々の生活の気配もない。
戦前はそれでも城下町の名残りをとどめた個性的な街が存在していたが、戦後
はすっかりその面影も見られなくなった。それは、戦後の戦災復興に始まる全国
一律的な計画によるところが大きいが、やはり問題は地域自体にもある。隣が何
をしたからこの地域でもという横並びの発想がこれまでの地域に多かったのでは
ないかと思う。欧米の例に見るまでもなく、地域それぞれの豊かさは地域が独自
の主張を表現するところから始まると思う。
 最後に掲げたいのは、表通りだけでなく裏通りこそ重点的に力を入れたいという
ことである。これまではともすれば、地域の中心部や繁華街といった表通りを整備
することにのみ力を注いできたきらいがある。横浜市でも70〜80年代にかけて最
も重点的に行われたのは、みなと未来21などに代表される、横浜港に面した都心
部の整備であり、横浜市の裏通りは、依然不便極まりな状態が続いている。道路
も狭い、下水道もない。もちろん都市公園の整備率も低い、交通も不便である。こ
ういったところにこそまちづくりの施策は重点的に行われて、それが豊かな水準の
街になる方向を目指さなければならない。
 まちづくりが裏通りこそ重点的に行わなければならないというのは、そこが人々
の生活の本拠であるからだ。結局のところ住民にとって住みよい、暮らしやすい町
をつくるのは、最終的には土木・建設事業によるにしても、今申し上げたような5つ
の観点から、どういうプライオリティで持ってどこからまずわが町は手をつけていく
か、どういう町を実現していくかということに他ならない。
 今申し上げた5つの目標を一つ一つ取り上げれば、それを目標に掲げてまちづく
りを進めてきた地域もないわけではないが、そこに住む市民の豊かさというのは、
生活の一部分だけではなくて、その全てにわたって実現して初めて実感できるも
のであるから、そうした観点から市民生活の全てにかかわりあうこの5つの目標に
は大きな意味があると思う。
 と言ってどの地域でもこの5つの目標を同時に達成するのは困難である。そこ
で、どうしてもプライオリティの問題が出てくる。それもまた地域地域で異なるのは
言うまでもないことで、今開発行為が行われている、自然や景観が損なわれよう
としている地域では、これを守ることが第一になるだろうし、高齢化の進行が激し
い地域では、あるいは福祉が第一になるかもしれない。そして5つの目標を順次
達成していく。

























 しかし、これらの目標には終わりはないことは言うまでもないことを付け加えて
おきたい。これらの水準が高ければ高いほど住民にとって好ましいことに他ならな
いからである。豊かさにはゴールはない。まちづくりは、常に高い水準を目指して
進めなければならない。目標が低ければ、その町並みの水準も、低いものにしか
ならないわけだから、当然常に高い水準の目標を掲げて、まちづくりを行うことが
重要である。
 こういった5つの目標が実現されるとすれば、それはおそらく人々が生活するう
えでの基盤を備えた福祉社会といえる街になるのではないかと思う。数年前90数
歳で亡くなられたアメリカの人類学者パーラー・ウォードという女性は、まちづくり、
あるいは居住の確保というのは、あらゆる人間存在に平等と尊厳を与えるため
に、計画によってその維持・向上が実現されなければならないといっていたが、正
に5つの目標をそういった計画によって今後進めなければならないということが、ど
の都市にとっても共通の課題になっているのではないか。
 もちろんこれらの目標を追求するには、一体それぞれの地域がどういった町を目
指すのか、そのイメージを固めてそれを確立することがまず必要である。なぜ必要
かというと、それによってまちづくりの目標のプライオリティが変わってくるからであ
る。それをいろいろな方策でもって実現していく道筋を描くのが計画である。それ
が、都道府県レベル、市町村レベルにおいて策定されている総合計画、長期計
画はもちろん重要であるが、地域にとってもそういうまちづくり計画をつくる必要が
ある。計画というのは、現実と将来のある時点に選択・設定した目標を対比して、
その間の目標実現のプライオリティと道筋を明らかにするものであるが、その計画
をやはり地域も持たなければならないということである。都道府県レベルや市町
村レベルにまかしておくだけではなく、地域自らも作っていかなければならない。
というのも、都道府県レベルや市町村レベルの計画では、やはり地域が望んでい
るきめ細かさまでを書き込めることはおそらく不可能であり、例えば都道府県の職
員にしても、市町村の職員にしても、地域のどの通りの角に面しているところを、
もっと水準の高いものに再開発していくにはどうしたらよいかということまで、考え
ているはずはないし、知っているはずはない。そういうことは、地域の人が一番良
く知っている。だから、地域にとってそういう計画を作ることが必要だと思う。
 やはり、その計画というのは、単に都道府県レベルや市町村レベルの計画にな
らったものではなくて、まちづくり総合条例的な目標とそれを実現していく条件の
一部をプログラム化したものが必要ではないかと考えている。福岡市の場合で
は、区レベルぐらいの総合条例が欲しい。福岡市は東京都と違って特別区制度
は取ってないので、区が条例を作るのは難しいが、としたら福岡市が ↓
地域住民が役所を頼り、役所が前例主義である限り、まちづくりも協働もできない。文化(地域のみんなが楽しく暮らす姿や形)は育たず奈落の底に落ちるばかりということ。
博多区まちづくり条例などを作ればよいのであって、区レベルまで降ろしたまちづ
くり総合条例が必要なのではないか。おそらくそれを条例という形で制度化するこ
とが不可能であれば、まちづくり憲章といったものを掲げて、この憲章のもとに区
のまちづくりは、将来に向かっていろんな事を行う、地域のまちづくりは将来に向
かって様々なことを行うことを宣言する、そういう試みが必要ではないかと思う。
 93年の都市計画法の改正によって、全国3,300弱の市町村の内、都市計画区
域に指定されている1,900の市町村では、地域の実態に即した、ということは地域
ごとに異なる具体的な都市計画のマスタープランを作ることが可能になった。これ
は従来、ややもすれば画一的・抽象的・無味乾燥であった都道府県計画とか市
町村計画構想をより地域的・具体的なものにするまたとないチャンスであるが、そ
ういった都市計画のマスタープランはあくまでまちづくりの手段に過ぎないわけ
で、まちづくりに欠かせないのは目標であり、その目標を実現するための方策で
ある、その計画をつくる。そして、その計画を進めるための理念を書き込んだ条例
を作る、条例が作れないのであればそれを宣言化する憲章を作る。そういう試み
が各地で迫られているような気がする。いずれにしても、目的を掲げたなら、目
的・理念・施策という完結した体系として、ルール・プランといったものをまとめてお
かなければ、まちづくりの方向があっちへ行ったりこっちに行ったりする気がしてな
らない。
 もちろんこうした計画、条例、憲章をつくるにしても、そのプロセスが重要なのは
言うまでもない。プランニングはプロセスなりという言葉もあるが、プランはプロセ
スによっていいものにもなるし悪いものにもなる。そのプランを作るまでのプロセス
が重要である。このまちづくり学校に誘われたときも、このまちづくり学校もそうい
うプロセスでないかと感じた。

○定住を進める具体策
 当面する問題、都心部の空洞化にどう対処するかということであるが、アメリカ
の都市政策をできれば参考にできないか。アメリカでは、レーガン大統領の都市
を民間資本による再開発で活性化させようとする、いわゆるレーガノミックスによっ
て都市再開発が80年代前半非常に増えた。それによって大都市という大都市は
どこも都市空間を企業が占有し人がいなくなった。車のラッシュもひどく大気汚染
も耐えがたいものがある。文化的・歴史的建造物も損なわれていく。アメリカ的都
市のよさが損なわれていく危機感を感じた住民達が、住民投票などによって、都
市の成長を管理する、都市の成長の歩みを穏やかなものにしようというそういう政
策を採ることになった。サンフランシスコやニューヨークである。 → 

























 サンフランシスコでは、住民投票によって都市で年間に供給される事務所ビル
の供給量を制限した。その事務所ビルの建設が許可された事業所に対しては同
時に住宅の布設を義務付ける。住宅布設が不可能な場合は、他の場所に住宅を
建てるための資金の供与を企業に義務付ける。さらに、地域の雇用を確保するた
めに地域の人々を再訓練させるための費用を供与させている。住民投票の結果
は最終的には51%対49%であったらしいが51%の賛成でそういう要求の住民案
が可決された。サンフランシスコでは1980年代後半から、そういう施策を展開して
いく。新しい事務所の開発にはもちろん住宅の付置が義務付けられる。それで、
特に低所得者、ハンディキャップ・マイノリティといった人たちのアフォーダブルハ
ウジングと雇用が確保されるにいたった。
 ニューヨークでは都市計画の用途規制と住宅政策をリンケージさせ、用途地域
によっては、容積率の割り増しを行い、それだけ住宅を付置させる政策を大々的
に行っている。つまりマンハッタンの7番街といった福岡市で言う天神のようなとこ
ろでも劇場と住宅が、一緒の建物に入っていたり、あるいは、学校と住宅が併設
されていたりといった例が当たり前の光景になっている。マンハッタンのど真ん中
でも貧しい人々が住んでいけるわけである。
 それは、成長管理という考え方に基づいて、できるだけ事務所ビル、企業による
都市空間の占有にセーブをかけて、それに代わって住民が定住しうる施策を大々
的に進めるというそういう政策の結果である。こういった成長管理施策は、どこの
大都市でも都市の成長を加速させて、都市空間を住み難いものにする、貧しいも
のにする、そういう事態から防ぐ、市場経済の下でもっとも有効な手段ではないか
といわれている。
 いずれにしても、都市というものは誰もが豊かに住み働き楽しむことができる、
多様で個性あふれる地域空間でなければならない。当然のことながら人が主人
公である。都心部から人がいなくなるという事態は、一刻も早く解消しなければな
らない。


1995.6.24
九州大学教授 本間義人
博多部の現状は!、博多駅の再開発は!

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