■ まちづくりの原点 ■
1995.6.24
九州大学教授 本間義人
今日は、私が考えている「まちづくりの原点について」はなしてみたいと思う。次
の6点が今日の話のポイントである。
1 欧米のまちづくり
2 日本の都市政策
3 国家に替わる政策主体(自治体)の登場
4 まちづくり総合条例、あるいはまちづくり憲章
5 まちづくりの目標と実現の条件
6 定住を勧める具体策
○欧米のまちづくり
さて、この会場におられる人の中にはヨーロッパや北アメリカへ旅行にいった経
験のある方がずいぶんいると思う。そのとき、何に一番大きなカルチャーショックを
受けたかを改めて思い出していただきたい。海外旅行に行っておられない方々
も、いろんなテレビの映像やあるいは雑誌のグラビアなどで、海外の事情には詳
しいと思うので、もう一度その体験を思い出していただきたい。おそらく、北アメリ
カやヨーロッパに行かれた方々が、一番感動したのは、あるいはカルチャーショッ
クを受けたのは、先方の町並みにではないかと思う。車や飛行機で行く先々の町
並みが、非常に個性ある独特の主張をしている。その地域の歴史、伝統、風土に
沿って、きわめて水準の高い町並みが形成されている。住宅を含む個々の建築
物も非常に水準が高く、日本の町並みと比べると全体として非常に水準が高い。
豊かである。そういうことに気づかれたと思う。名所旧跡もさることながら、そういう
先方の行く先々で違う顔を見せている水準の高い町並みに感動されたに違いな
い。
そして日本に帰ってきて、成田空港、福岡空港に降り、バスなり電車なりで帰途
に着くとき、改めて日本の町並みを見て愕然とせざるを得ない。なんと北アメリカ
やヨーロッパの町並みと違うことか。彼らとの差に愕然とせざるを得ない。そういう
北アメリカやヨーロッパと違うきわめて水準の低い町並みが日本の都市を形成し
ている。これは、日本と北アメリカやヨーロッパの都市政策の歴史を振り返ってみ
ると、起こるべくしてできた格差であるといえる。
北アメリカはともかくヨーロッパの国々は、戦前、戦後を通じて、特に戦後におい
て、社会民主党政権なり労働党政権ができて以来、都市政策あるいは都市にお
ける住宅政策を国家的計画主題として展開してきた経緯がある。そこが日本の場
合と基本的に異なる。 →
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イギリスの場合、1850年代より産業革命後のロンドン、リバプールといった都市
をどう改善していくかというのは、国家にとって最大の課題として取り上げられて
いた。それで、1850年代に公衆衛生法を制定して、下水道の整備に着手する。あ
るいは、公共住宅法を作って公共住宅の供給に力を入れるとかを今から140年前
にはじめている。それで1901年には、ニュータウンを世界で始めてロンドン郊外の
レッチワースに作り、以降勤労者の住居、その住居を取り巻く住環境、その住環
境の組み合わせからなる都市というものを秩序立ててきた経緯がる。戦後は、特
に第2次世界大戦に参加した兵士が帰国してくる。帰還兵士のための公共住宅
の大量建設に力を入れてきた。サッチャー政権によって、公共住宅の民間への払
い下げという乱暴な政策が行われたにもかかわらず、全国的には、なお総住宅数
の30%以上は公共住宅である。マンチェスターのような工業都市になると60%ぐ
らいが公共住宅で閉められている。そういう政策を取ってきて町並みを作ってき
た。スウェーデンについても、戦前の都市計画の教科書では、ストックホルムの市
街地などはヨーロッパのスラムの代表と位置づけられていた。戦後、社会民主党
政権が誕生するに及んで、公共用地を大量に自治体が取得する政策を進めるこ
とによって、整然とした町並みを作ることに成功した。今ではスウェーデンのストッ
クホルムは、旧市街地新市街地を含めて、ヨーロッパでもまれに見る美しい都市
であるといわれている。それも50年間、国家的計画主題として都市と住宅にある
いは土地政策に取り組んできた結果である。
同じ敗戦国であるドイツの場合は、アデナウァーがケルンの瓦礫の上に立って、
ドイツのもてる全ての力を都市へ住宅へと叫んだということである。そこで、日本と
同様の空襲で瓦礫と化した都市の復元復興に取り組むと同時に、社会住宅とい
う制度を取り入れて、国家資金を住宅に導入して賃貸住宅あるいは分譲住宅の
供給に力を入れていく。
このようにヨーロッパの国々はいずれも、住宅や都市についてこれを国家的計
画主題として取り組んだ経緯がる。
○日本の都市政策
ひるがえって、日本の都市政策、住宅政策を見ると、それが国家的計画主題と
して展開された事があったのかどうか振り返ってみると、残念ながらヨーロッパの
事例のようではない。日本が国家的計画主題として都市、住宅に取り組んできた
経緯はないのである。
明治維新、首都が京都から江戸・東京へ移ってきた。江戸・東京をどういうふう
に近代的な都市にするかということで、いろんな人たちがヨーロッパへ視察に訪れ
た。ちょうどナポレオン3世の命令でオスマンが行ったパリの大改造に感激して帰
ってくる。それで日本の都市、なかんずく東京は、パリあるいはロンドン並の都市
に作り変えなければならないと宣言するわけである。 ↓ |